
「日本のこころを、つないでいく」をテーマに、日本文化や伝統に根ざした美の世界、
そして、その分野で活躍する人々の魅力を発信しているプラチナサロンでは、
2017年6月、日本の美を五感で楽しんでいただくイベントを初開催。
ゲストに、創刊号にご登場の十五代 酒井田柿右衛門氏と第四号にご登場の草月流第四代家元 勅使河原茜氏を迎え、
器と花と食、伝統と革新が出合う、奇跡的な一夜の幕が開いた。
十五代 酒井田柿右衛門
プロフィール
1968年佐賀県有田町に生まれる。父は後に人間国宝になった十四代酒井田柿右衛門。多摩美術大学で日本画を学んだ後、十四代のもとで修業。2014年十五代を襲名。2016年の「有田焼創業400年」にあたり、オランダのアムステルダム国立美術館、ロンドンの大英博物館に作品を展示・寄贈。
「柿右衛門」は世界的に長く愛されているブランドの一つ。
骨董ファン以外にも知られた名前だが、その詳細を知る人は多くはない。
今回は、十五代酒井田柿右衛門氏が自ら約四百年におよぶ長い歴史を紐解いた。
酒井田家はもともとは福岡の八女で武士をしていました。大友宗麟の家来でしたが、戦に負けて佐賀に連れて来られ、そこで生まれた子どもが初代柿右衛門です。記録では江戸時代初期、1635年までが武士で、40年代に赤絵を焼き始めたとあります。その頃、内乱中の中国のかわりに日本からヨーロッパに陶磁器を輸出できないかという話が来て、その流れで色絵磁器が開発されたようです。
17世紀後半につくられた「柿右衛門様式」は濁手(にごしで)という乳白色の地に左右非対称に色絵を描きます。その色は赤緑青黄紫が基本です。柿右衛門には、ずっと柿右衛門様式の磁器をつくっているイメージがあるかと思いますが、そうではありません。中国が輸出を再開すると、有田では中国に対抗して、もっと華やかな金襴手様式が生まれました。そうなるとうちも金襴手をつくったり、流行の一番のものをつくり続けて明治に至ります。
苦しい時代もありました。十三代は太平洋戦争に出征し、戦後有田に戻ったら、駅に迎えに来た職人さんから「迎えに来ましたが、給料がもらえないので辞めます」と言われて、必死で引き止めたそうです。そして、戦後の復興期をみんなで頑張るために、ずっと忘れられていた17世紀後半の濁手の技術の復活に取り組んだのです。
草月流第四代家元 勅使河原茜
プロフィール
1960年、多方面に活躍した前衛芸術家で草月流第三代家元の勅使河原宏の次女として生まれる。祖父で初代家元の蒼風(そうふう)、叔母の第二代家元・霞から、いけばなの手ほどきを受けて育つ。幼稚園教諭を経て、1985年草月会・広報部に勤務。1989年草月会副会長となり、「茜ジュニアクラス」を創設。1991年より国内外でインスタレーションやデモンストレーションを展開。2001年第四代家元を継承。世界のあらゆる世代に向け、いけばなの魅力を発信している。
今回の会場は、昭和の巨匠建築家、丹下健三が設計した草月会館。
草月流の本拠で、家元の勅使河原茜氏が、酒井田柿右衛門作品を使い
いけばなパフォーマンスを行うという、美しいコラボレーションが実現した。
「濁手 杜鵑草文 深皿」には、てっせんの紫をポイントに、カラフルに着色したキウイの蔓を踊らせました。のびやかな浮遊感のある晒ししだれぐわを花留めにすることで、器内部に描かれたブルーやグリーンの美しい文様も隠すことなくきれいに見せています。
「濁手 菊文 花器」には、器の色彩に合わせて、いたやかえで、紅葉、つるうめもどき、ういきょうなどをいけ、緑と赤の対比を楽しみました。さらに、深紅のしゃくやくや、たいさんぼくをあしらい、より華やかな印象になりました。
酒井田柿右衛門氏と勅使河原茜氏は、今回が初対面である。
目の前で自作に花がいけられる様子を見るのは、酒井田氏には初めて。
また、勅使河原氏が柿右衛門の器に花をいけるのも初めて。
今回のコラボレーションは互いに新鮮な刺激となったようだ。
―― パフォーマンスはいかがでしたか?
酒井田 | すばらしいですね。最初はわからなかったのですが、だんだん進んでいくと、器の白がすごく映えてくるんです。特徴をいかしていただいた感じがします。 |
---|---|
勅使河原 | 今回は、器がもつ独特の「白」をいかすことを強く意識しました。 |
―― 勅使河原先生から「いけばなは空間を大事にする」というお話がありましたが、酒井田先生の「余白を大事にする」というお話と共通点がありますね。
酒井田 | やきものの場合はボディの中で余白をつくることをやっています。余白をつくるための構図のポイントがあり、余白をいかすように、色も限られたものを使います。 |
---|
勅使河原 | いけばなの場合は植物によって形も色も違いますし、いけていくうちに自分なりの空間を見つけていく、という感じでしょうか。 |
---|---|
酒井田 | 短時間でいけられるのに驚きましたが、花のいけかたには決まりごとはあるのでしょうか。 |
勅使河原 | 基本の決まりはありますが、草月の場合、基本を習得したあとは、それぞれの自由な表現を追求していきます。時代がどんどん変化することによって、いける「場」も変わってきますから、その時代に合ったいけばなを模索していくのが草月の使命かなと思っています。 |
酒井田 | 器にも、時代の流行みたいなものがありますし、時代の食文化があります。江戸時代は当然和食ですけれど、今は和洋中、いろんな国のいろんな料理がありますので、それに対応し、今の時代に合った器をつくることが必要かと思っています。 |
―― 今回のイベントのタイトルに「至福の一会」とありますが、お二人がこの言葉から思い出すのは、どのような「一会」ですか?
酒井田 | 襲名したときのことですね。佐賀と長崎と福岡でお祝い会をしていただいたのですが、最初に佐賀でしたときには450名もの方々がいらっしゃって、直接励ましの声をかけてくださいました。すごく感激して、挨拶のときはしばらく声が出なかったくらいです。 |
---|---|
勅使河原 | いけばなを通じて初めて出会った方々とコミュニケーションをするのが、私の「至福の一会」ですね。いけばなパフォーマンスでは、いける前は緊張してドキドキしていますが、いけているとだんだん気持ちがほぐれてきて、見ている皆さんの表情からも楽しんでくださっているのが感じられる。こうなるともう、「幸せで、やめられない!」という感じがします。 |