
日本の知識人にとって、古代より書は必須の教養であった。
そのため価値観が早くから固定し、変化に乏しい時代が長く続いた。
しかし、第二次世界大戦の終了後、書道界にも変化の波が立ち上がった。
造形の自由さを追求する要素をもちながら、
漢字とかなを組み合わせた、親しみやすい「近代詩文書」という分野が確立。
近代詩文書の開拓者、金子鷗亭(かねこ おうてい)を師とする石飛博光氏は、恩師の志を受け継ぎ、
人のこころを支える書、生活を豊かに彩る書を目指す。
金子みすゞの詩「わらい」より。
34 × 56cm
詩のやさしさに合わせ、水彩絵の具で模様を入れた画仙紙に、行頭をずらしてリズミカルに書き上げた。
石飛博光氏の故郷は北海道赤平市。炭鉱のまちであったが、石飛少年の高校時代、
炭鉱の衰退が始まりつつあった。家庭の経済的な事情から、
進路を迷っていた少年に、その後の人生を決める運命の出会いが待っていた。
高校3年の秋、地元の赤平市で金子鷗亭先生の講演会がありました。金子先生は非常に高名な書家でしたから、「この機会に作品を見ていただこう」と、書きためた作品をいっぱい抱えて行きました。大人はそんな畏れ多いことはやりませんが、高校生だから遠慮がない。先生はそれを見ながら「君は将来どうするんだ」と聞いてくださった。「札幌に出るつもりです」と答えたら、「本格的に書を勉強するなら東京だよ。優秀な人が集まっている中で切磋琢磨できるから」と。そう聞いた途端に東京の大学に行こうと思いました。
それまで僕の中に東京という選択肢はなかった。四人きょうだいの長男ですし、父親は炭鉱で働いていて、家に経済的な余裕がない。でも、父に思いを伝えると、「やりたいことをやりなさい」と許してくれた。ただし、国公立大学のみ、浪人は許さないという条件がついた。高校2年から勉強をしなくなって、定期試験前に王羲之(おうぎし)の名作「蘭亭序(らんていじょ)」を臨書したりしていた僕は、必死で受験勉強を始めました。
金子鷗亭(かねこ おうてい)
近代詩や俳句などを、漢字とかなで書く「近代詩文書」という分野を創始した金子鷗亭は、1906(明治39)年生まれの書家。「現代書道の父」と呼ばれる比田井天来(ひだいてんらい)に師事し、古典を学びながら、同時代の文学や西洋絵画にも親しんだ。そして、島崎藤村や草野心平などの歌や詩を書くために、ふさわしい技法を研究。今までにない構成や線の表現の工夫の中で、近代詩文書の形式がつくられていった。その作品は、今も書道を志す人々に大きな影響を与えている。
終戦の日の「全国戦没者追悼之標」(1962~1992年)、硫黄島慰霊碑(1971年)などの揮毫でも知られる。2001年95歳で永眠。文化勲章、北海道開発功労賞ほか叙勲受賞多数。
1960年春、石飛博光氏は東京学芸大学書道科に入学し、上京を果たす。
東京タワーが完成し、日米新安保条約が調印された年である。
変動する社会の中、書家たちも新しい時代の表現を模索していた。
金子鷗亭先生は、書の古典をしっかり学びながら、「温故知新」の言葉通り、古典に含まれている新しきものを求めるという姿勢が、言動にあふれていました。
第二次大戦後の書道界には、西洋の美術の影響を受けた、新しい書に挑戦する人たちが全国から現れた。そして、線を活かす造形とか、今まで言われてこなかったことが語られるようになった。先生の教えには、新しい考え方を発展させながら、書道界を改革していこうという強い意志がありました。
さらに先生のすばらしい点は「師を否定しなさい」とおっしゃったことです。それは、師を否定しなければ、師を超えることができない、ということなんです。師の作品を真似しているだけでは、師を超えられません。そこで、師匠の作品を真似るのではなく、師匠が何を学んできたのか、学んだ方法を真似をしました。つまり、師匠が古典を学んだように、古典を学び、さらに古いものを書いてみる。新しい絵画や文学に触れてみる。そうすると、師とは違う、自分の目が養われます。
一つのスタイルを守り続け、門下生たちも同じスタイルを踏襲する。
書ならずとも、そのようなやり方を固持する人たちは少なくない。
石飛博光氏はそれとは逆のことを自らに課してきた。
二十代から「一作一面貌」といって、一作一作異なる表情の作品を書くことを目標にしてきました。同じ書体でも新しい何かを加えたい。新しい要素を盛り込みたい。一つのところに留まっていたくない。そういう気持ちが強かったですね。「一作一面貌」は厳しいけれど、同じことをずっとやるよりは新しいことに挑戦したいな。若い人たちの新しい息吹を感じながら、何か新しいことができたらいいですね。
また、書の楽しさを広く知っていただくことを、書道界全体でやっていかなくてはいけないと思います。書く楽しさ。伝える楽しさ。とにかく楽しんでほしいな。題材は何でもけっこう。僕は自分が好きなJ-POPの歌詞も作品にしています。上手い下手は関係なく、書で自分を表現することを楽しめばいいんですよ。