
備前焼は平安時代末期に始まり、水を保存する大壺、徳利、擂り鉢などの日用品は、
庶民の暮らしを長く支えてきた。また、古備前と呼ばれる古い茶道具は茶人に珍重される。
世界的な評価も高く、これまでに5人の作家が人間国宝の認定を受けた。
その5人目である伊勢﨑淳氏は、長い歴史に磨かれた技術を手中にするのみならず、
備前焼の革新者として、自己の感性を表現する新しい造形と技法の探求を続けている。
伊勢﨑淳(いせざきじゅん)
1936(昭和11)年、陶芸作家・伊勢﨑陽山の次男として岡山県和気郡伊部(現・備前市伊部)に生まれる。岡山大学教育学部特設美術科を卒業後、父に師事。室町時代の穴窯を、父、兄・満とともに復活させ、高い評価を得る。また、イサムノグチ、流政之、池田満寿夫など、多彩な芸術家と交流し、備前焼の新たな表現に挑戦。1981(昭和56)年金重陶陽賞をはじめ受賞多数。1998(平成10)年より日本工芸会理事。2004年(平成16)年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
伊勢﨑淳氏の地元、岡山県備前市伊部は、備前焼の町として知られる。
父も備前焼のつくり手で、少年時代から兄とともに父の仕事を手伝った。
生活に余裕はなかったが、身近な備前焼から世界の芸術へと関心を広げた。
戦後の一番貧しい時代、備前焼をつくる人はどんどん減りました。一時は20人くらいになっています。うちも貧しくて、大学で美術を勉強したくても、東京や京都の芸術大学には行けない。そんな中、国立岡山大学教育学部に特設美術科というのができました。美術の教員を育てるコースですが、岡山で美術ができるならと、そこに行くわけです。
大学では絵画や前衛美術をやっている人たちと知り合い、自由な造形に出会いました。あくまでも備前の素材と技術を根底にしつつ、独自の表現を目指していきたかった。ところが父親は、「おまえは次男だから、教員になれ」と、作家を目指すことに反対でした。心臓が悪くなっていた父親に心配させたくなくて、仕方なく1年だけ教員をやりました。1年だけというのは、その間に父親が心筋梗塞で亡くなったから。もう反対する人はいないので教員を辞め、月給を貯めたお金で、将来拠点にするために土地を200坪買ったんです。これは大きな決断でした。
備前焼の歴史
備前・伊部でのやきものづくりは平安時代末期に始まる。耐久性にすぐれたことから社会の発展とともに販路を広げ、室町時代には常滑を抜いて日本最大のやきもの産地となった。釉薬をかけずに焼く、「焼き締め」という技法に特徴があり、土の成分が炎や薪の灰に反応して生み出される素朴な表情は、戦国の世の茶人に好まれた。江戸時代は他の産地の発展、茶人の好みの変化などから、「細工物」と呼ばれる置物や飾り物が主流となる。明治以降は日用雑器が中心になっていたが、昭和初期、金重陶陽が茶陶としての復興に取り組む。第二次大戦後、陶陽と志を同じくする人々の努力によって備前焼の再評価が進んだ。
伊勢﨑淳氏の父は、晩年、知人の土地で発見された室町期の穴窯の復元に取り組んでいた。
穴窯とは、斜面を利用してつくるトンネル構造の窯である。
江戸末期に穴窯は廃れたが、現代でも穴窯で焼くと古い備前焼のようなやきものができるのか。
期待と不安を抱きつつ、1962(昭和37)年、兄弟は父が遺した穴窯に初めて火を入れた。
登り窯は炎を上下させるので、同じものをムラなく大量につくれます。一方、穴窯では焚口から奥に向かって一直線に火が通り、炎が当たる表と裏では違う表情になる。それが古備前の味わいになっていましたが、穴窯は効率が悪い。江戸時代後期に備前にも登り窯が入ると、江戸時代末頃に穴窯は使われなくなりました。
それから百年ぐらい断絶していたので、備前に穴窯の経験者はいませんでした。資料もない。昔は技術を人に知られないように、口伝(くでん)で伝え、紙に残さなかったんですね。参考になったのは、古い大窯跡に落ちている陶片。当時の土のつくり方や窯の詰め方など、いろんな情報が一つ一つの陶片に残されています。
父が亡くなった翌年、復元した穴窯にはじめて火を入れました。これが案外うまくいって、新聞に紹介されたり、備前焼で初の人間国宝になった金重陶陽さんがお酒を持ってお祝いに来てくれたりしました。それから三年くらい順調でしたが、その後は大失敗もありました。だいたい思う通りにできるようになるまでには、十年くらいかかりました。何であれ、物事は十年かかりますよ。
伝統的な穴窯を復活させた伊勢﨑淳氏だが、伝統に縛られることは嫌う。
むしろ、彫刻的な作品や、建築を飾る陶壁など、
伝統の枠からはみ出すようなものに積極的に取り組んだ。
日本の伝統工芸というのは自然素材を上手く利用し、つくり手が技術を加えて一つのものをつくっていく。やきものの場合、その技術の中に焼成の技術があるわけです。備前焼は釉薬をかけないけれど、土の選び方や窯入れのときの工夫で、意図的に色や模様をつくり出すことができます。穴窯はその表現の幅が広い。現在の備前でも登り窯が主流ですが、私がやるようになって、少しずつ他にも穴窯を試す人が出てくるようになりました。
やってみようと思ったことは、人にどう評価されるか気にせず、やってみるといいんです。自分がつくりたいものをつくるのが、ものをつくる人の使命ですよ。
備前焼は昔から土地の素材と向き合って、また新しいものをつくっていくという姿勢を崩していません。それは私たちに非常にいい教訓になっています。素材と向き合って、新しい世界を生み出す。現代の世界を生み出していく。そういう気持ちでものをつくっていこう、ということですね。
「好きなことをやる」と決め、
他の人よりも多くの
チャレンジを重ねた伊勢﨑淳氏。
その革新性は他の芸術分野の人々の目を
備前焼に向かせ、後に続く世代に
創造する勇気を与えている。
(Part2へ続く)