
食事以外に、楽しみとして口に入れる「菓子」。
日本でははじめ果実、木の実を意味した菓子は、大陸から伝わった餅や水飴、
鎌倉時代以降に禅宗にもたらされた饅頭や餡、羊羹、納豆などを吸収し、発展した。
さらには南蛮人の菓子も取り入れ、茶道の発展とともに趣味趣向を凝らしたものとなる。
その伝統を受け継ぐ日本の菓子とは現代においてどのような可能性を持つ存在なのか、
和菓子職人の水上力氏は、自身の店、一幸庵から世界のパティシエに問いかけている。
水上 力(みずかみ ちから)
1948年東京都生まれ。和菓子職人の家に生まれる。大学在学中に和菓子職人を志し、京都、名古屋で修業を積み、1977年、東京・小石川に「一幸庵」を開く。 京菓子と江戸菓子を融合した和菓子は、茶人や和菓子愛好家のみならず、国内外の有名パティシエ、三ツ星シェフにも愛される。創作菓子では、 「エコール・ヴァローナ東京」「ジャン・シャルル・ロシュー」はじめ国際的なチョコレート会社やパティスリーメゾンと協働し、和菓子の可能性を探究。国内外での講演、デモンストレーションも多く、 2016年には外務省の日本ブランド発信事業のために渡欧。著書『IKKOAN 一幸庵 72の季節のかたち』(青幻社)、『和菓子職人 一幸庵 水上力』(淡交社)。
「和菓子」という日本語は、西洋菓子が広まって生まれたものだ。
フランス人は自国のお菓子をわざわざフランス菓子などと呼ばない。
水上力氏はそんな疑問から、自分なりの和菓子の定義を考えてきた。
「和」っていうのは辞書では意味がいっぱいあります。海がなぐ、穏やか、気分がやわらいでいる、なごみ、無事、平和、どれも「和」に含まれます。また、日本のお菓子はお茶との関係もあります。お茶うけの「請け」はお茶の味を請け負うということ。だから、お菓子にはお茶をおいしくする義務があるんだ。お菓子を食べて口に甘さの余韻が残っているところにお茶を飲む。「お茶がおいしい」と思うそのとき、お菓子の甘さは口に残っていない。お茶のおいしさだけが残っている。つまり、お茶と和菓子は主従関係にあります。殿様がお茶。家来がお菓子。殿様が輝く瞬間、そこに侍はいないのと同じで、お茶がおいしい瞬間に和菓子はそこにいない。『葉隠』の哲学ですよ。「お茶おいしかったな」と言われれば、和菓子はそれでいいわけです。
和は「にこ」とも読みます。「にこにこ」は自然な笑顔。お菓子を食べて、お茶を飲んでおいしかった。やわらかな気持ちで出る笑顔。そういうものをつくり出すのが和菓子だと私は思います。
和菓子の種類
日本の長い歴史の中で発達した和菓子には非常に多くの種類がある。カステラや金平糖のように南蛮貿易に由来し、江戸時代に広まった菓子も和菓子に含まれる。
和菓子の分類としてよく見られる「生菓子・半生菓子・干菓子」は、水分量で分けたものである。「餅もの」(桜餅、おはぎ、団子など)、「蒸しもの」(饅頭、ういろうなど)、
「流しもの」(水羊羹など)、「練りもの」(練切、求肥など)、「打ちもの」(木型で固め、打ち出す。落雁など)といった分類は、製法に由来する。
「上菓子」は、貴人や茶家に納める献上菓子であり、上等な菓子を意味する。「京菓子」「江戸菓子」は地理的な分類であるが、「京菓子」はとくに京都の上菓子にいう。
江戸時代、上菓子を口にすることができるのは上流階級に限定され、江戸では武家、京では公家であり、彼らの好みが意匠や風味に影響を与えた。
水上力氏はいわゆる団塊の世代にあたり、戦災から復興しつつある東京に育った。
公認会計士を目指して大学に進学するも、学生運動により大学は封鎖。
日本の戦後を問う声がこだまする中、茶道の稽古を始めた青年は
やがて自身の目標に矛盾を感じ、父や兄たちと同じ、菓子職人の道を選んだ。
うちは私の上に男が三人いてみな菓子屋になったから、「何でおまえまで」と言われたけれど、会社員という考えは頭になかったし、突き詰めたら菓子屋しか残っていなかった。父親の職人仲間を介して京都の店を紹介されました。
京菓子は衝撃的でした「こんなうまいものがあるのか」と思いましたね。父親はばりばりの江戸菓子です。全然文化が違う。まして私は専門学校で勉強したわけではないので、旦那がやっていることを見て、言われたことを忠実にやっていくしかない。一から体で覚えさせてもらいました。
京都では、随筆家の岡部伊都子先生との出会いもありました。先生の本を読み、「お菓子を食べる人はこんな気持ちで食べるのか」ということに気づいた。お菓子を覚えるために京都にいるから、「つくれるようになればいい」と思っていたけれど、そうじゃなかった。お客さんがどんな気持ちで食べるのかまで考えることができてこそ職人です。そのことを私は岡部先生から教わった。それで、お手紙を差し上げたところ店にお見えになり、亡くなるまでおつきあいさせていただきました。旦那と並ぶ生涯の恩師です。
京都から名古屋に移り、そこでも京菓子の修業をした後、二十九歳で東京・茗荷谷に自分の店を開いた。
親の応援を得て開いた店だが、当初は「京菓子」であることにこだわり、
「京菓子 一幸庵」を名乗った。しかし、今の看板に「京菓子」の文字はない。
東京に戻った当時は「自分は京菓子だ」というプライドがありました。東京でも京菓子の伝統を守って、「これが和菓子の基本です」ということをやっていきたかった。でも、東京の人は京菓子を知らないから、わかってもらえない。お客さんに合わせ、江戸菓子と京菓子を合わせることも必要でした。
二十年くらい前、店をやめようと思ったことがあります。あることがきっかけで、京都の修業先の不興を買い、すごく悩んで「もう俺はやめる」と家族にも言いました。1か月くらい店を閉めていたら、懇意にしていた人が「あなたは京都に飯を食わせてもらっている気なんだろうが、水上力のお菓子を買いに来る人がいるから飯が食えているんじゃないか」と言われました。あ、そういうことなんだ、と気がついたら、急に楽になりました。それで看板も「京菓子 一幸庵」から「お菓子調進所 一幸庵」にしたんです。
それからは変わりました。縛られるものがなくなったから、洋菓子とのつながりにも躊躇なく入っていけます。「これはお菓子なんだ」とね。職人は自分がいいと思うお菓子をつくればいい。そういうことです。
伝統を踏まえ、
自分がいいと思うものを、
口にする人を思い、
一生懸命につくりたい。
その思いがこめられた
水上力氏の菓子は、かけがえのない
今日という日を引き立てる。
(part2へ続く)