
日本刀は長い歴史の中で鉄の武器としての機能を極めるとともに、
形の美しさや、刃の表面に浮かび上がる色合いの表情を鑑賞するものとなった。
江戸時代、平和な世相に合わせて刀は華奢に美しくなり、
鎌倉、室町の名刀をつくった技法は美を求めて変化した。
しかし、石田三成はじめ大名たちが所有した正宗、徳川家に祟ったという村正など、
数々の名刀が今の世にも伝えられる。河内國平刀匠は平成の世にあって、
失われた技術の謎を解き明かし、戦う用の美の復活を目指している。
2014年、河内國平氏は日本美術刀剣保存協会「新作名刀展」において正宗賞を受賞した。
この賞はとくにすぐれた作品に与えられるもので、河内氏も受賞は初めて。
高く評価された理由は、「映り」と呼ばれる模様の美しさだった。
「映り」というのは、表面に浮かび上がる影のような地紋。鎌倉や室町の古い名刀にはよく見られますが、江戸時代前半からあまり見られなくなったと言われます。「映り」にいろんな人が挑戦していて、自分もずっと実験してたんやけど、あるとき考えが変わった。包丁からのヒントやねん。
刀の姿は時代を表します。時代によって使い方が違うから。昔の刀は人を切るのに使ってましたわ。美しいかて、切れるのとは違う。日本刀は「用の美」いうけど、いつのまにか「用」はどっかにいって、美だけになってたん違うかな。そう気がついてやり方を変えたら、「映り」が出たんです。別に難しいもんやない。原点に帰ったということです。
刀の表面をよく見ると、砂鉄の産地の違いで地鉄の色も違うし、刃文もいろんな個性があります。名刀と呼ばれるのは、明るく冴える。金や銀ではない鉄の色をこれほどまでに味わう文化は日本以外にないんじゃないかと思います。
河内國平氏の名前は、考古学ファンの間では、「七支刀」とともに知られる。
七支刀とは奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に伝わる古代の刀でどのようにつくられたものか長く論争があった。
2005年河内氏らのグループは定説を破る鋳造での復元に成功し、考古学者たちに大きな衝撃を与えた。
大学時代、勝手に文学部の授業を受けて、考古学者で橿原考古学研究所の所長でもあった末永雅雄先生の研究室に出入りしていたんですよ。修業から帰ると、古代刀剣研究の手伝いをするようになりました。藤ノ木古墳出土の刀剣の復元もやったわ。でも、七支刀はうまくいかなかった。日本刀と同じように鍛造だといわれていたのですが、鍛造で規則的な枝をつくるのはムリがある。末永先生が亡くなってから、直接本物を見れば何かわかるかと思うけれど、国宝でご神体に準ずるものだから見られない、という話をある友人にしたところ、その人のおかげでついに実物を見ることができたんです。見たら鋳造だとすぐわかりましたね。表面が平らだといわれていましたが、レンズ状になっているんです。
職人が見たら、わかることがあるんです。実際にものをつくってますから。学者とは違いますもん。何でも学者ばっかでやらないで、職人や現場でやってる人をもっと使ったらいいと思いますよ。
古代刀剣の復元、鎌倉時代の名刀の研究を通し、
時代のニーズに応じて努力した、過去の刀匠たちに多くを学んだ。
刀匠の後継者にならんと修業を始めた日から五十年以上を経て、「伝える」ことよりも「残す」ことが重要だと思うに至った。
国は「ものごとの伝承」いうて、弟子を育てよとか言うけど、ものを残すことが伝承ですよ。もの残しておいたら、復元しようとするねん。
薬師寺の西塔かて、東塔があったから建てられたと思いますよ。宮大工の小川三夫さんも、そう言ってたわ。東塔があったから、それを全部調査して、道具からつくって復元したんやろう。
技術なんて、人に伝わらへんもんや。弟子なんて性格も一人ひとり違うしな、自分の考えのほうに行きよるわ。でもな、びっくりするようなもの残しておくねん。すると「親方こんなもんつくった」と感心して、研究し、自分も挑戦しようとするねん。そやから、いかに名刀を残しておくかということが僕の使命やと思います。
過去52人が河内國平の門を叩き、
國の字を与えられたのは7人。
今も刀匠を続けているのは
4人しかいない。
今は刀匠に厳しい時代でも
時代を越えて残る刀を
つくることができたら、
自分に挑む人が必ず現れる。
そう考える河内氏自身、
命ある限り歴史上の名人たちに
挑み続ける覚悟なのだ。
(了)