陶芸家、北大路魯山人。加賀山代温泉の人々が導いた、食と芸術の融合。
陶芸家、北大路魯山人。加賀山代温泉の人々が導いた、食と芸術の融合。
  • 「あらや」の主人の依頼で描いた衝立「暁烏」。
    奈良時代の高僧、行基が旅の途中に烏が羽の傷を癒しているのを見て
    山代温泉を発見したという伝説にちなみ、
    宴会中に酔った勢いで一気に描き、しばらくして暁を描き足したという。
北大路魯山人「覚醒の地」

10号記念の今回は、北大路魯山人の美の遺産を辿り、石川県加賀市と東京を旅する。
北大路魯山人は、日本の陶芸、食文化を語る上で欠かせない人物である。
食材の選択、器と料理の調和などに心を尽くし、
伝統的な料理に確固たる美学を与え、日本料理の進化を導いた。
陶芸家としては遅咲きで、30代までの専門は書と篆刻である。
転機の舞台となった石川県加賀市の山代温泉には、現在も魯山人の滞在地が残り、
波乱に満ちた人生を歩んだ魯山人と地元の人々とのあたたかい交流の物語が伝わっている。

北大路魯山人(きたおおじろさんじん)

1883(明治16)年京都府生まれ。本名、房次郎。上賀茂神社の社家に生まれたが、幼少期は養家を転々とする。十代で懸賞金目当てに書を始め、西洋看板の仕事をしながら書を学ぶ。版下書家、書道教授、朝鮮総督府書紀などを経て、1914(大正3)年から日本各地を放浪。この間に書家、篆刻家として名を高め、陶芸に開眼。1920(大正9)年大雅堂美術店を開店。2年後、美食倶楽部を主宰。1925年(大正14)年、星岡茶寮を開き、美食家として名を馳せる。1936(昭和11)年放漫経営から追放され、以後作陶に専念。第二次大戦後アメリカで評価され、日本を代表する陶芸家に。1950(昭和25)年、重要無形文化財に推薦されるが辞退。1959(昭和34)年76歳で死去。

欧州で第一次世界大戦が始まった1915(大正4)年の秋、
金沢の数寄者、細野燕臺が山代温泉に背の高い書家を連れて来た。
「福田大観」と名乗ったこの男は、後の北大路魯山人である。

 山代温泉は加賀温泉郷の一部をなす、歴史ある温泉場である。近年明治時代の姿に復興された、「古総湯」と呼ばれる共同浴場から徒歩3、4分の距離にある古風な邸宅「いろは草庵」が、山代温泉滞在中に魯山人が生活した場所である。現在は加賀市が所有するが、もとは旅館・吉野屋の別荘で、主人が客をもてなす場として使っていた。「いろは草庵」を管理する加賀市の学芸員、蔵本敬大さんは、「この町の文化サロンだった」と言う。
 「どこを掘っても温泉が出てくる山代温泉ですが、この別荘には水が湧く井戸がありました。それで旦那衆はここに集まって茶を飲んだり、情報交換をしていたようです。魯山人を気に入っていた細野燕臺さんは、文化芸術に理解のある旦那衆なら仕事を与えてくれるだろうと、山代温泉に連れてきました」
 燕臺の読みは当たり、魯山人は早速宿の看板として使う額などを次々と依頼される。まとまった収入を得た魯山人は春先までここに滞在し、旦那衆との交流を楽しんだ。

  • 江戸時代は大聖寺藩前田家や、北前船で稼いだ商人たちが疲れを癒しに訪れた山代温泉。明治末には旅館経営者の出資で鉄道が開通し、昭和の終わりまでは北陸一番の賑わいを誇った。
    江戸時代は大聖寺藩前田家や、北前船で稼いだ商人たちが疲れを癒しに訪れた山代温泉。明治末には旅館経営者の出資で鉄道が開通し、昭和の終わりまでは北陸一番の賑わいを誇った。
  • いろは草庵 木造二階建て、建築面積72㎡の母屋が当時のままに残り、土蔵が作品の展示室となっている。2001年「北大路魯山人寓居主屋」として、国登録有形文化財に指定された。
    いろは草庵
    木造二階建て、建築面積72㎡の母屋が当時のままに残り、土蔵が作品の展示室となっている。2001年「北大路魯山人寓居主屋」として、国登録有形文化財に指定された。
  • いろは草庵 ここに滞在中の、当時「福田大観」と名乗っていた魯山人は、しばしば旦那衆と囲炉裏を囲み、書や美術などの話に興じたという。
    いろは草庵
    ここに滞在中の、当時「福田大観」と名乗っていた魯山人は、しばしば旦那衆と囲炉裏を囲み、書や美術などの話に興じたという。
  • 魯山人が制作した吉野屋の看板。魯山人は独学で書を学び、21歳で日本美術協会主催の展覧会に初出品し、一等二席となっている。篆刻も独学で、大陸の名作を師とした。
    魯山人が制作した吉野屋の看板。魯山人は独学で書を学び、21歳で日本美術協会主催の展覧会に初出品し、一等二席となっている。篆刻も独学で、大陸の名作を師とした。
  • 山代で最初につくった吉野屋の看板を陽刻(文字を浮き立たせる)、二番目は陰刻(文字を彫る)だったので、三番目の「あらや」は両方の技法を使った。そんな遊び心も旦那衆を喜ばせた。
    山代で最初につくった吉野屋の看板を陽刻(文字を浮き立たせる)、二番目は陰刻(文字を彫る)だったので、三番目の「あらや」は両方の技法を使った。そんな遊び心も旦那衆を喜ばせた。

孤独な少年の料理

 魯山人は上賀茂神社の社家、北大路家に生まれながら、生後すぐに家を出されている。その理由は、魯山人が母の不義の子で、父はその事実を知って自刃したためという。
  幼い魯山人は父母の顔を知らぬまま幾つかの家を転々とし、6歳になる頃、木版師の福田武造に引き取られた。福田家に落ち着いた魯山人は料理を手伝うようになるが、それは、あちこちの家で虐待を受けてきた少年が、食べるのが好きな養父母にかわいがってもらうための作戦でもあった。
  貧しい家で入手できる食材を、可能な限り美味しく料理しようと努めた魯山人は、素材のすべてを活かし切る技術を身につけた。残り物を活用するのも得意だっため、放浪時代は居候先で重宝された。

※写真 吉野屋主人の息子、吉野恒氏(右)と30代の魯山人。釣り上げたすっぽんの調理法を考えているようにも見える。後にすっぽんは魯山人の得意料理となる。

  • 加賀の初夏を代表する魚、アマダイの姿焼き。
    魯山人の器は、料理を盛られたときに一段と魅力を増す。
  • 魯山人の時代にあった山代温泉の旅館の多くは移転や所有者が変わったりしたが、
    「あらや」は子孫に受け継がれ、今も共同温泉のすぐそばで客を迎える。
  • 1921(大正10)年の作品「楽閒」。
    静かな時間を楽しむことはこの宿のサービスの核となっている。
  • 改装時に移築された特別室「御陳の間」。魯山人もここに宿泊した。
    加賀らしい朱色の壁が目を引く。

かねてから滋賀の長浜、京都などで数寄者の世話になり、
骨董収集や美食の贅沢を体験し、彼らの生活美学を吸収していた魯山人。
山代温泉滞在中には、食と芸術の融合へと歩みを進めることになる。

 「金持ち、喧嘩せず」という諺のまま、山代温泉の旦那衆は穏やかだった。「今では考えられないほど、ゆったりしていたようです」と老舗旅館「あらや滔々庵」の十八代、永井隆幸氏は、魯山人を迎えた曾祖父の時代を羨む。「旅館の経営者たちが町議会や温泉の管理の仕事を分担していたので、お友だちづきあいが仕事でもありました。みなさん仲が良くて、父の代までは『ちゃん』づけで呼び合っていましたね」
 彼らに歓待された魯山人は、加賀料理にどんどん詳しくなっていく。「京都料理は華やかで、人の手をかけますが、加賀料理は地元の食材をそのまま活かした料理です。家庭的、庶民的なんですよ。でも、魯山人はそういうところを、とても気に入ったようです」。
 吉野屋の主人らのすすめで金沢の料亭、山乃尾を訪れた魯山人は、山乃尾の主人に見込まれ、加賀料理の極意を教えてもらった。それらは魯山人が東京で主宰した「美食倶楽部」、関東大震災後に開いた高級料理店「星岡茶寮」の人気メニューとなるのだった。

  • 「あらや滔々庵」の永井隆幸氏。宿に残る魯山人作品と現代アートを組み合わせ、国内外の客をもてなす。
    「あらや滔々庵」の永井隆幸氏。宿に残る魯山人作品と現代アートを組み合わせ、国内外の客をもてなす。
  • 加賀野菜は赤い南瓜、紫色の「金時草」などもあり、彩りが華やか。瓜のような「加賀太胡瓜」は昭和につくられた、1本の重さが1kgにもなる品種。
    加賀野菜は赤い南瓜、紫色の「金時草」などもあり、彩りが華やか。瓜のような「加賀太胡瓜」は昭和につくられた、1本の重さが1kgにもなる品種。
  • 古今の芸術家と同様、魯山人も富士を好んで描いた。本作は夏富士の颯爽とした姿を活写する。
    古今の芸術家と同様、魯山人も富士を好んで描いた。
    本作は夏富士の颯爽とした姿を活写する。
  • 山代温泉の中心部にある須田菁華の窯元。
    昭和初期のままの母屋の一階の軒下に、魯山人の額を掲げる。
  • あらや滔々庵が所有する魯山人が陶芸を始めた頃の作品。
    魯山人は色絵の絵付から陶芸を始め、後に織部、備前、志野など多彩な様式に手を広げた。

魯山人は金沢の細野燕臺の自宅で、新たな味の真実を悟った。
それは、料理にふさわしい器は、料理をさらに美味しくするということ。
自作の器で自分好みの食卓をつくりあげていた燕臺に感銘を受けた魯山人は、
山代温泉の須田菁華のもとで、はじめての作陶に挑む。

 須田菁華は細野燕臺の友人で、その縁から魯山人は菁華の工房の額を依頼され、さらには工房に出入りすることが許された。陶工が弟子以外の他人に工房を使わせることは現代でも珍しい。曾孫に当たる四代目は、「初代は魯山人をよほど気に入ったのでしょう」と語る。研究熱心で様々な技法を身につけていた菁華のもと、魯山人は型にはまることなく、伸び伸びと才能を伸ばしていった。
 三代菁華が雑誌に寄稿した文章によると、初代の妻は魯山人に技術を盗まれることを心配していたという。しかし、初代菁華は少しも気にせず、聞かれるままに教え、古陶を見せて勉強させた。魯山人が窯を開いたときには工人を引き抜かれ、周囲は憤慨したときも、本人は泰然としていた。

  • 作業に熱中する魯山人(右奥)と初代菁華。飲み込みの早い魯山人に菁華は驚き、「あの男はただ者ではない」と評していたという。
    作業に熱中する魯山人(右奥)と初代菁華。飲み込みの早い魯山人に菁華は驚き、「あの男はただ者ではない」と評していたという。
  • 初代作品の古赤絵獅子つまみ香炉。初代は色絵を得意とし、九谷焼復興に貢献した。その他にも多彩な技法を研究し、成果を魯山人に隠すことなく見せた。
    初代作品の古赤絵獅子つまみ香炉。初代は色絵を得意とし、九谷焼復興に貢献した。その他にも多彩な技法を研究し、成果を魯山人に隠すことなく見せた。
  • 初代須田菁華の曾孫に当たる四代目。須田家は色絵の技術を受け継ぐだけでなく、料理上手も受け継ぐ。
    初代須田菁華の曾孫に当たる四代目。須田家は色絵の技術を受け継ぐだけでなく、料理上手も受け継ぐ。
  • 雨に濡れることを前提とした額を「濡額(ぬれがく)」と呼ぶ。魯山人は晩年に山代温泉を再訪した際、風雨に晒された菁華窯の額を見上げて「いい色になった」と喜んだ。
    雨に濡れることを前提とした額を「濡額(ぬれがく)」と呼ぶ。魯山人は晩年に山代温泉を再訪した際、風雨に晒された菁華窯の額を見上げて「いい色になった」と喜んだ。

 当時の工房は昭和初期の大火で失われ、その後に再建された店舗と工房が現在も昭和のまま残る。軒に掲げられた看板は、出会いのときに制作された額である。時折、町のガイドが店頭で額を指差し、「須田菁華が魯山人に陶芸を教えました」と観光客に解説する。四代目はそれを聞くたび、「初代はそんなことを言っていないのに」と少し戸惑いを感じるという。
  「魯山人はすでに確固とした芸術観を持っていました。画を描けば、それが画に表れた。器をつくれば、器に表れた。そういうことです。書も料理も根本は同じ。ものの見方、センスの確かな人は、何をやっても優れている。初代は魯山人に芸術を教えたとは少しも思っていなかったはずです」
 一方、魯山人は1955(昭和30)年、金沢で「私ハ先代菁華に教へられた。」と題する講演を行っている。「お世辞を言う人じゃなかったから、講演で語った通り、『こういう人になりたい』と思っていたんでしょうね」と四代目は魯山人の心を想像する。

魯山人の芸術を見出し、自由な人柄を愛した、山代温泉の人々。彼らとの穏やかな日々の間に得たものが、魯山人を次のステージへと導いた。輝かしい成功を手にした後は、山代温泉へは姿を見せなくなるが、彼らの心の交流の証として数々の宿や菁華窯に魯山人の多くの作品が残された。

魯山人の芸術を見出し、自由な人柄を愛した、山代温泉の人々。彼らとの穏やかな日々の間に得たものが、魯山人を次のステージへと導いた。輝かしい成功を手にした後は、山代温泉へは姿を見せなくなるが、彼らの心の交流の証として数々の宿や菁華窯に魯山人の多くの作品が残された。
(PART2「美食の継承」編へつづく)

加賀山代温泉で魯山人の足跡を追った前編に続き、後編では食通、陶芸家として世に名を知られた昭和の魯山人に焦点を当てます。
晩年の魯山人と親しかった人々の子孫が営む東京の名店を訪れ、毀誉褒貶の激しい美の巨人の実像に迫ります。

PREMIST SALON MOVIE KITAOOJI ROSANJIN
KITAOOJI ROSANJIN IN KAGA YAMASHIRO PHOTO GALLERY 1
北大路魯山人 「美食の継承」編を読む