
日本には多くの織物産地があり、その地域を代表する織物がつくられてきた。
とくに京都は平安朝以来の歴史を背景に、日本の織物文化の中心をなす。
しかし、中心にいることが染織家の才能を伸ばす絶対条件ではない。
土屋順紀氏は、独立とともに京都から故郷に戻り、今も故郷を拠点とする。
紋紗の人間国宝に認定されるまでに至ったのも、故郷と無関係ではない。
創作活動の岐路において、故郷はつねに自分らしい表現の鍵となったのである。
土屋順紀氏の故郷は、古代から街道の町として発展した岐阜県関市。
昭和30年代、町の歴史や文化が身近な環境で子ども時代を過ごした。
のちに師との出会いから、日常で触れる美が作品にあらわれることを知る。
関は小さい町ですけれども、歴史や文化があり、小さいだけに凝縮されていました。小学校の向かいの春日神社のお祭りで見た能装束の美しさは、とても印象に残っています。うちの裏にはお琴の先生がいらして、そこを訪れる芸者さんが雨の日に傘を半開きにしている姿とか、その時代でもあまり見られないものが見られました。今になってみると、古い美しいものが身近にあったのは、感性を育てるうえで良かったと思います。
感性というのは自分だけのもので、そこが技術とは違います。感性がとても大切であることは、京都の志村ふくみ先生から学びました。志村先生とのご縁は、京都の美術専門学校の染色の授業で工房にお邪魔したのが始まりです。植物の色のすばらしさに感動し、卒業後に弟子にしていただきました。一日目は「昼からお花見に参りましょう」と、みんなで京都の桜を見て回りました。そうやって美しいものを見ながら思ったことを先生が私たちにお話しされますから、先生の思いが作品の芽生えになる瞬間を日々体験させていただきました。
師の工房から独立する際に、岐阜で活動するのは不利ではないかと師に尋ねると、
あっさりと「それは、なんてことはないです」と返された。
どこにいるかよりも、自分の感性はどうであるかが大切なのだと悟った。
岐阜に戻った一番の理由は経済的なものでしたが、「自分」というものを出していくことを考えると、岐阜のほうが良い面もあります。京都のようにすばらしい方々が活躍されている場所にいたら、大きな波にのまれてしまったかもしれません。そもそも京都にいたら、私はよそ者です。京都の人間にはどうしたってなれません。
1996年に日本工芸会展総裁賞をいただいた「鮎の瀬」は、長良川の夕日が美しい「鮎ノ瀬」という地名から命名しています。長良川の水を飲み、長良川を泳いだこともある自分の感性を表現し、評価をいただけたことは大きな自信になりました。
その後、北村武資先生に捩り織を習ったとき、はじめは紋織(ジャカート)に取り組みたいと思いました。けれどもそれには京都に行く必要があったので、紋紗になったのです。ここにいるとできないこともあるので、自分で工夫し、自分にあるものすべてを活かしてきたことが、結果としては良かったのでしょう。
織田信長が示したように、岐阜は東にも西にも、日本海側にも出やすい。
京都のほか東京、金沢など、各地に気軽に出向いて作家たちと交流を楽しんできた。
近年は他の分野で活躍する若手作家と展覧会を開くなど、若手との交流も広がる。
工芸という分野には伝えられる技術があって、素材があります。それを使って何をどう表現するかというと、感性の問題になります。ですから学生の方には「自分自身の感性を磨いてください」と、そればかり言っています。
今の若い方の感性が良くないということではないのです。私は、私にはないものとして、若い方の感覚を魅力的に感じます。面白い作品をつくっている方々もたくさんいらして、情報過多の時代にどのようなものが生まれてくるのか大変興味をもっています。それを見て自分はどう感じるか。そこにまた新しい表現が生まれる可能性があります。
着物という形にも、新しい可能性はまだまだあるでしょう。たとえば、性別も年齢も関係なく、誰でも着られるような新しい着物とか。紬も、今改めて取り組んでみたい気持ちがあります。自分は今を生きているのですから、今という時代を表現しなくては意味がありません。若い人たちに刺激を受けながら、新しい表現に挑戦していきたいと思います。
二千年前の中国の織物を、
師の北村武資氏が復活させたように、
織物は時代も国も
越えていく可能性がある。
今を生きる自分の感性が、
未来を生きる人のこころを動かす。
その可能性を信じ、
土屋順紀氏は故郷の工房で
今日も機を織る。
(了)