志を継ぐ若き蔵人とともに、日本酒の新たな時代を拓く。
志を継ぐ若き蔵人とともに、日本酒の新たな時代を拓く。
杜氏 農口尚彦「日本酒復権」

技術の進化は日本酒にもおよび、米の品種改良、醸造技術の発展により、
二十一世紀の日本酒市場では多種多様な酒造会社が個性を競う。
その一つ、農口尚彦研究所は、「酒の神」とも呼ばれる杜氏、
農口尚彦氏の技術を次の世代に伝えることを目指し、2017(平成29)年に設立された。
この場所で農口氏は過去の栄光をなぞるのではなく、新たな伝説を生み出そうとしている。

  • 杜氏 農口尚彦「日本酒復権」
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八十四歳という高齢での復帰であったが、「休んでいるときよりも体調がいいですよ」
と笑う農口尚彦氏。孫ほどの年齢の蔵人たちには、その一挙手一投足が教科書である。
その農口氏自身が手本とした人物は、二十八歳で杜氏として採用してくれた菊姫の柳辰雄社長だった。

 柳社長はお母さんに「家の商売がつぶれても、頭ができていればなんとかなる」と言われ、京大で勉強された方です。ものすごく本を読んでいらして、日本酒の業界誌は隅から隅まで読んでおられたんですけど、「わしは酒のことはわからん」と聞き役に徹しておられました。また、人の話を聞くのが上手なんです。何かあるときだけ、「ちょっと違うんじゃないかな」と言われ、よく気づいたなとビックリさせられました。生活もきちんとした人で、奥様が入院されたときは、お手伝いさんがいるのに自分で下着を洗濯されていて。そういう柳社長の後ろ姿を見ながら、わしは自分を修正していったんです。今あるのは柳社長のおかげだと思います。
 人は夢があれば、周りから吸収して育ちますよ。お金につられて入ってくると、何年経っても育ちません。夢を持った子には、知識がなくても、この仕事は全然怖くない。分からないことは、ぶつかって聞いてきます。そのへんは体で覚えるんですよね。大事なことは一つ一つの作業を丁寧にやって、やったことを記録して、振り返ること。すべての仕事はそうであろうかと思うんですけど。

  • 麹室(こうじむろ)で、蒸した米にモヤシと呼ばれる麹菌の胞子(種麹)を散布する。この作業を種切りといい、均一に散布することで上質な麹になる。
    麹室(こうじむろ)で、蒸した米にモヤシと呼ばれる麹菌の胞子(種麹)を散布する。この作業を種切りといい、均一に散布することで上質な麹になる。
  • 取材時の麹室内部は、室温44℃、湿度43%というサウナのような環境であった。汗で衣類がまとわりつかないよう、上半身裸で作業する。
    取材時の麹室内部は、室温44℃、湿度43%というサウナのような環境であった。汗で衣類がまとわりつかないよう、上半身裸で作業する。
  • 麹菌はあたたかく湿度のある環境を好むため、種麹が付着した米を小山のようにまとめ、布に包み保温し、菌を繁殖させる。その方法にも杜氏それぞれに流儀がある。
    麹菌はあたたかく湿度のある環境を好むため、種麹が付着した米を小山のようにまとめ、布に包み保温し、菌を繁殖させる。その方法にも杜氏それぞれに流儀がある。
  • 小松市の安宅海岸。日本酒は土地の食文化とともにあり、石川県では日本海の魚介に合う酒が好まれる。

    小松市の安宅海岸。日本酒は土地の食文化とともにあり、
    石川県では日本海の魚介に合う酒が好まれる。

  • 冬の安宅海岸。雪の降る気候は日本酒に合うのか、日本酒の消費量が日本海側で多い。

    冬の安宅海岸。雪の降る気候は日本酒に合うのか、
    日本酒の消費量が日本海側で多い。

バイオテクノロジーや技術の発展により、
現代では日本酒づくりの現場にも自動制御システムがさまざまに取り入れられている。
若いときから数値の分析を意識し、最新技術の導入に積極的な農口尚彦氏だが、
日本酒を完全に自動化するのはまだまだ難しいと考えている。

 酒づくりも理論化されて、うまい酒をつくる基本的な技術は解ってきているんです。それなら全部機械に任せようとすると、全然任せられないです。たとえば、米を蒸すのは、今はボイラーでエネルギーもむだにならないし、薪をくべていた時代に比べるとすごく楽にできます。でも、それを毎日同じ設定で、同じ量でやっても、同じ仕上がりにはならないです。なぜかというと、気圧が毎日違うから。今の時代、室温や湿度はすっかり管理できますけど、気圧ばっかりはどうしようもないです。そこで米を水に漬ける時間を変えたりして調節するんです。
 麹をつくる機械も今はあります。それを使うと、色がなくて、きれいな酒になります。でも、もうひと味がないと私は感じます。やっぱり麹は手づくりでないと物足りないです。大事なところは手をかけ、目をかける。それで自分の思うところまでもっていく。それがわしの酒づくりの特徴です。

  • 米を洗い、水に浸す時間は、蒸米の仕上がりに影響するため、ストップウォッチで計測し、管理する。同じ産地の同じ米でも年によって最適な時間が異なる。
    米を洗い、水に浸す時間は、蒸米の仕上がりに影響するため、ストップウォッチで計測し、管理する。同じ産地の同じ米でも年によって最適な時間が異なる。
  • 何十年も各作業のデータを記録していき、失敗もそのまま記録し、同じような失敗を繰り返さないようにしている。
    何十年も各作業のデータを記録していき、失敗もそのまま記録し、同じような失敗を繰り返さないようにしている。
  • 日本酒になる前の発酵中の状態を「もろみ」と呼ぶ。仕込みから7日目頃、アルコール発酵がさかんな時期は多くのガスが発生し、自然に循環する。

    日本酒になる前の発酵中の状態を「もろみ」と呼ぶ。
    仕込みから7日目頃、アルコール発酵がさかんな時期は
    多くのガスが発生し、自然に循環する。

  • 仕込みから日数が過ぎるとアルコール発酵が落ち着き、20日目頃には表面に膜が張る。アルコール度数は16℃近くになっている。

    仕込みから日数が過ぎるとアルコール発酵が落ち着き、
    20日目頃には表面に膜が張る。
    アルコール度数は16℃近くになっている。

日本酒だけの並行複発酵

伝統的な日本酒には、他の酒とは異なる大きな特徴がある。それは麹によって米のでんぷんが糖に分解(糖化)され、その糖が酵母によってアルコールへと分解(アルコール発酵)される過程が、低温の環境のタンク内でじっくりと時間をかけて並行的になされることだ。ワインではブドウの糖をアルコールに発酵させていて、ビールは糖化とアルコール発酵が別々に行われるなど、日本酒のような「並行複発酵」でつくられる酒は他にない。

日本酒の市場を七十年以上観察してきた経験から、
農口尚彦氏は日本酒業界は今後、輸出に注力すべきだと考えている。
和食文化が世界に受け入れられ、日本酒の魅力を深く味わう外国人も増えてきた。

  • 旅行で来日し、うまい日本酒を求めて小松まで足をのばす外国人も。酒樽のデザインは外国人には、おしゃれに見えるという。
    旅行で来日し、うまい日本酒を求めて小松まで足をのばす外国人も。酒樽のデザインは外国人には、おしゃれに見えるという。

 米には大きく分けて、インディカ種とジャポニカ種があります。外国に多いインディカ種は固くて、低温では分解しにくいんです。でも、高温にすると分解できます。そういうやり方でなら外国でもつくれますけど、わしは日本の杜氏です。日本の酒米で、日本の風土で、低温並行複発酵でつくらないと。
 今、アルコール飲料はまったくの国際化の時代です。好きな人は世界中にいるはずですから、日本酒を日本から世界のすみずみに届けられるルートをつくっていけばいいんです。戦後、日本は繊維や電気製品を外国に売ってきましたけど、今はどこの国も技術が進んで、日本から外国に売るものがなくなってきたじゃないですか。これからは日本の誇りとして、日本酒を売っていくしかないと思いますよ。

宮城能鳳

日本の土、水、気候、人の営みの
すべてが凝縮されているからこそ、
世界的な評価が高まりつつある日本酒。
七十余年、飲む人の笑顔を
見つめ続けてきた農口尚彦氏は、
日本酒が世界への扉を大きく開く
その瞬間に立ち会おうとしている。
(了)

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