
日本でもっとも古いやきもの産地の一つに数えられる備前。
時代の需要に合わせ、つくるものは変化したが、昔から現在まで一貫して、
釉薬をかけずに焼く「焼き締め」である。シンプルでありながら、
地元の個性の強い土は、炎と薪によってさまざまな表情を見せ、その世界は奥深い。
備前焼の人間国宝の一人、伊勢﨑淳氏は、室町時代からの技術に創意工夫を加え、
新しい備前焼の開拓者として、今も未知の可能性に挑む。
備前焼は日本では家庭にもある親しみ深いやきものだが、
世界的には釉薬をかけない「焼き締め」の陶器は大変珍しく、
そのシンプルな美しさに関心を持つ外国人も増えている。
備前焼に限らず、日本の伝統工芸というものは、つねに素材は自然のものを使っています。それを人間が手を加えて形にする。だから作品の中には日本の自然もあるし、風土もあるし、つくり手の感性や美意識も入っている。そこには人間と自然の共存の精神みたいなものがつねに流れているような気がします。備前焼はとくに土地の自然のものだけを使い、他のやり方を真似しないで、ものを生みだしてきました。そういうところが日本の伝統工芸、あるいは備前焼のいいところだと思いますね。
私の作品も、植物や動物、大地など、自然界から発想してつくっています。たとえば「神々の器」の中心の丸い部分は、水を意識しました。ここだけ白いのは、丸い陶板を置いて炎が直接当たらないようにしているから。その中に浮かぶ赤い線は、藁の成分が変化したものです。炎のエネルギーは、破壊のエネルギーにもなるけれど、創造のエネルギーでもある。先人はそこをよく理解して、備前焼の技法をつくり上げていったんです。
備前の土
備前焼に使われる伊部周辺の粘土は、有機成分や鉄分が多く含まれ、密度が高い。その分、収縮率も高く、焼成後は元の80%程度の大きさになってしまう。また、耐火度が低く、急な温度変化に弱い。同じ焼き締めでも信楽や伊賀よりも焼成に時間を必要とする。しかし、焼き上がると耐久性にすぐれ、古くは擂り鉢の市場は備前が独占していた。また、釉薬をかけずに焼くことから器が呼吸し、備前の壺は水が腐りにくく、花器は植物が長持ちするという。
掘削地で多少性質が異なり、一般に田んぼの土(田土)はきめ細かく、山林の土(山土)は粗い。作者が意図に合った土を選び、準備することが、非常に重要である。
四十代から目と心臓の病気を繰り返し、入院した回数を数えるのに両手では足りない。
しかし、創作意欲というエネルギーが身体を司っているかのように、
八十歳を過ぎてなお東奔西走しながら精力的に活動を続けている。
病気をしているときも、次にやることをいろいろ考えて、退院すると「やってやるぞ」と。マイナスをプラスに転じるような意識を持っていたというか、楽観的なんですよ。失敗しても、悩んだりしませんね。へこたれていたら前には行けないから。とにかく行け、進め、ですよ。
ここ十年ぐらい「引出黒(ひきだしぐろ)」という技法をやっています。引出黒というのは、高温で焼いているところを窯から出して、急冷させることによって独特の色合いを生みだすものです。瀬戸から始まった技法で、瀬戸のは「瀬戸黒」ともいいます。釉薬をかけて登り窯で焼く瀬戸と違い、耐火度の弱い備前の土に釉薬もかけず、11日かけてゆっくりと1200℃まで上げていくと、急冷したときに割れやすい。割れないようにするのに苦労しました。
なぜまた新しいことをやっているかというと、まだ見たことがない自分の世界を見てみたいということでしょうか。備前焼にはまだ可能性があると思うんです。それを、やってみたい。やりかたを人に聞かれたら全部オープンにしています。隠したって、どうせすぐバレますよ。それをもとに次の技法を生みだしてもらった方がいいね。
弟子のほか、陶芸を学ぶ大学生、若手作家などと接する機会は多い。
戦後の厳しい環境で頑張ってきた自分に比べ、彼らがどうだ、こうだとは言わない。
彼らの感覚を尊重し、新しい創造が生まれることを期待する。
つくり手はみんな自分が作品をつくったように思っているけれども、社会がそのつくり手の手を通じてつくらせている要素が非常に大きい。長いスパンで見ると、絶対社会がつくらせています。
この前も岡山大学の学生と話していたら、「床の間というのは何ですか」と言うわけです。和室のない家に生まれ育って、床の間を見たことがないらしい。日本の社会がそれだけ変化しているんです。その人は、床の間のない世界で生まれた感覚から、陶芸をつくっていくようになる。洋間に置くか、棚に置くかするものをつくるでしょうね。これも社会の現実だから良い悪いではない。同様に、過去の歴史も、社会がつくらせていた部分が非常に大きいと思います。
作品の評価も、歴史がするものです。歴史の中で、残るかどうか。自分の作品も本当の評価は五十年、六十年経ってみないとわからないでしょう。でも、つくる本人はそこまで生きていられません。そのとき感じたことから、つくりたいものをつくるよりほかないです。
地球のエネルギーを取り出したような
伊勢﨑淳氏の作品には、
薪になる赤松を育てる水や空気、
太陽の力も入っている。
どの国の人もその力を
感じることができるのは、
人間が地球の生き物に過ぎない
一つの証といえるだろう。
(了)