
江戸時代、歌舞伎の劇中音楽として発展した「長唄」。
やがて音楽として独立し、明治時代からは演奏会での鑑賞が行われる。
料亭や邸宅でも演奏され、昭和までは女性のお稽古事として親しまれていた。
長唄三味線の人間国宝であり、作曲家でもある今藤政太郎氏は、
日本の音楽の和のこころを大切に、
長唄を伝えるだけでなく、未来に向け、若い世代と創造的な協働に取り組んでいる。
今藤政太郎(いまふじ まさたろう)
1935(昭和10)年、に藤舎流囃子方の家元、四世藤舎呂船、藤舎せい子の長男として東京に生まれる。東京藝術大学音楽学部邦楽科卒業。十世芳村伊四郎、三世今藤長十郎、今藤綾子に師事。繊細かつ大胆な構成力と豊かな詩情をもって、演奏・作曲の両面で活躍。国立劇場養成科、国立音楽大学等で後進の育成と教育にも力を注ぐ。現在、京都市立芸術大学客員教授。2016(平成28)年演奏活動から引退。受賞歴に、日本伝統文化奨励賞、芸術選奨文部科学大臣賞、日本芸術院賞、松尾芸能賞優秀賞等。旭日小綬章。2013(平成25)年、長唄三味線の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
今藤政太郎氏と長唄との出会いは、母のお腹の中にいた時代に遡る。
父は藤舎流囃子方の家元、四代目藤舎呂船、母はその名を継いで五代目となる演奏家。
旧例の通り数え年六歳から稽古を始めたが、少年時代から親の名を継ぐ気はなかった。
小学校四年生のとき東京大空襲で家が焼け、それから高校時代までは京都です。うちで囃子の稽古はしていましたけれど、中二までは学校の成績は優秀だったし、父親への反発もあって、弁護士になろうと思っていました。ところが中三で肺結核になり、学校を休みがちになったら、だんだん成績が悪くなりました。高校時代、この先どうしようかと思っていたら、唄を習いに行っていた先生に「坊や、商売人にならないかい?」と言われましてね。「商売人」とはプロのことです。プロになるには藝大に行けばいいと聞いて、藝大の受験に必要な三味線を始めました。まあ、ドロップアウトですね。
三味線を本格的に始めてからは、強制されたわけではなく、自分から毎日八時間くらい練習しました。とにかく上手く弾けるようになりたかった。周りは上手な人ばっかりでしたから、「今頃練習しているんだろうな」と思うと、負けるもんかと。固まった指から撥が外せなくなるくらい練習しました。
歌舞伎と音楽
歌舞伎の音楽は「唄もの」(長唄)と「語りもの」(竹本、常磐津ときわづ、清元)に大別される。「語りもの」は、浄瑠璃を語る太夫と三味線で構成される。一方、「唄もの」である長唄は、唄うたい(歌い手)と三味線のほか小鼓、大鼓、太鼓、笛も加わることが多い。
演目や場面によって演奏されるジャンルは異なるが、「掛合」といい二、三種類の音楽を互い違いに演奏し、一つの場面を盛り上げることもある。また、ジャンルで演奏する場所が違っていて、竹本は文楽と同じで上手(舞台に向かって右)、常磐津と清元が下手(舞台に向かって左)と決まっているが、長唄は正面の雛壇または上手である。
もっとも影響を受けた師は、十九歳で入門した長唄三味線の名人、三世今藤長十郎である。
その師にすすめられて二十代から作曲を始め、演奏と作曲が活動の両軸となった。
二十二歳で初めてつくった曲、「六斎念仏意想曲」は、三味線の可能性を広げたくて、ジャズのブルーノートを取りいれたり、今までないような技巧を盛り込みました。2019(令和元)年夏にNHKで放送したときには、たまたま見た若い人たちも面白がってくれたようです。
日本の音楽と西洋音楽は、まったく異種の音楽ではないんですよ。中東の音楽が東西に広がりそれぞれに発達したと思いますから、主な文化圏の音楽は共通点がいろいろあります。たとえば、どこの音楽も1オクターブは12の半音で分かれていることが多いです。そして1オクターブ上の音は、周波数でいえば倍になります。ガムランとか当てはまらないものはありますけれど、だいたいそうです。
ただし音階は、西洋はドレミファソラシドというように七つの音を選び取った七音階で、日本は基本ミファラシドミ、またはミファラシレミの五音階。七つのほうが発達した音階に見えるかもしれませんが、五音階はどの音からどの音に飛んでも良い旋律になります。そういう音階を持っているというか、選んだのが日本の特徴ですね。
日本の三味線
日本の三味線は、中国の三弦に由来する琉球の楽器、三線が16世紀の日本に入り、織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代に現在の形になったとされる。三味線ができたことで、語りと三味線の伴奏による「浄瑠璃」が発展し、説経節や民謡などにも三味線が取り入れられた。江戸時代後半には短い歌詞を歌いながら演奏する「端唄」が流行するなど、三味線音楽は広い層に受け入れられた。
三味線は「棹」と「胴」の部分からなる。棹の長さは二尺六分(62.5cm)で、太さは細棹、中棹、太棹を演奏内容によって使い分ける。たとえば長唄は細棹、津軽三味線は太棹である。演奏によって材が摩耗し、調整の際に削るため、一般に10~30年が使用の限度である。
日本舞踊や長唄の公演のための楽曲のほか、映画やフラメンコ公演用の楽曲も手がけた。
ときにはシンセサイザーなど新しい楽器を使い、周囲を驚かせてきたが、
いずれの作品でも歌は日本語を美しく聞かせる旋律を心がけてきた。
日本の音楽では唱歌といって、太鼓ではテレツクテン、三味線ではチントンシャンといったように音を表現するんですけれど、そこに日本語の擬態語や擬音語に通じるものがあります。虫の音ならチンチロリン、ウグイスの声ならホーホケキョ。正確な音でなく、自分たちの大事な言葉に聞きなおすんですね。自然のものを種類の違うものだと思わず、仲間だと思い、みんな同じものと見る。そのこころが根本にあって、音楽だけじゃなく、文化全体を包んでいるのでないかと思います。
作曲では、僕たちは「曲をこしらえる」と言うんですね。他と自分を分け、「私はこうなんだ」と主張するのが、西洋の「曲を書く」ことだと思いますが、日本の古い曲には作曲者が残した譜面がありません。お稽古で話し合い、舞台で演じる人、曲をつくった人、演奏する人のこころを融合させ、新たにつくりあげるんですね。だから初演のときと今ではまるきり変容しているでしょう。でも、逆にそれで残っていったのかもしれません。
厳しい稽古で技術を
体にしみこませながら、
長唄三味線の可能性を
追求し続けてきた今藤政太郎氏。
進取の姿勢は、
伝統を外れているように見えても
長唄を生んだ歌舞伎の伝統上にあり、
和のこころに沿っている。
(後編へ続く)