
日本の伝統音楽の世界に生まれ育ち、戦後の復興期に成長した今藤政太郎氏。
昭和元禄と呼ばれた高度経済成長期に若手演奏家、作曲家として活躍しつつも、
「このままでは日本の音楽は先細りしていくだろう」と不安を募らせていた。
半世紀後の現在、長唄をめぐる状況は予想した以上に厳しいが、
重要無形文化財保持者(人間国宝)という立場で、病を抱える身の内に危機への闘志を熱く燃やす。
七十代半ば、演奏家として円熟期を迎えた今藤政太郎氏は、突然体調不良に襲われた。
詳しい検査で下された病名は、パーキンソン病である。
演奏家にとっては致命的な、体の自由が損なわれる難病だ。
あるとき急激に演奏が下手になりましてね。もう何十年も演奏している「勧進帳」でしたが、非常に出来が悪かった。自分が病気を患っているとは知りませんでしたので、「老いたな……」と。
そのとき思い出したのが、海外のある有名ピアニストです。僕が大好きだったその人が、老いて惨憺たる演奏をしているのをテレビで見て、自分もいずれこうなるのかと思ったことがありました。ああはなりたくない。引退を考えなきゃ、と。たとえお客さんには下手になったことがわからなくても、自分が分かっていたら、お客さんをだますことになってしまいます。
幸い自分の周りには、上手くなってくれた演奏家がたくさんいます。僕がいなくても、バリバリ弾ける人が替わりにやってくれる。それはとてもいいことなんです。今までみんなと共にあったから、替わってもらうことができるんです。
人間国宝の打診があったときには、引退するつもりであることを申し上げたところ、「引退後もオピニオンリーダーとして頑張ってほしい」ということで、お受けいたしました。
2016(平成28)年、演奏活動から引退したが、音楽への意欲は衰えることなく、
引退の翌年には、失われた古典曲を復活させる復曲プロジェクトを始動した。
また、現役時代から取り組んできた、長唄と教育を結びつける活動の拡大にも注力する。
文化文政(1804~30)期以前の歌舞伎は記録が乏しく、失われた曲がいっぱいあります。その中には「これは良かったんじゃないか」というものもあるんです。復曲プロジェクトではそれをつくり直します。といっても、今藤政太郎としてではありません。初代杵屋正次郎だったら、この歌詞、この役者で、どういう曲をつくるだろう、ということを江戸時代の歌舞伎を専門とする先生や、古いことに詳しい演奏家とやっています。ロゼッタストーンを読み解くようなプロジェクトですね。
こういう研究の一方で、日本の音楽を多くの人に知っていただくこともやっていかないといけない。僕が近所の小学校に頼んで、初めて演奏させてもらったのは、昭和43(1968)年です。そのとき音楽の先生に「自分は邦楽をまったく知らなかった」と感謝されました。そんな形で学校で邦楽を紹介する活動を始めて、五十年くらい経ちます。今ではご存じのように、中学の音楽で和楽器が必須になりました。これがただのお題目になってはもったいないですから、長唄協会では中学校の音楽の先生のための講習会を行っています。
世界の自然破壊や気候変動の問題は、日本の音楽にも影響を与えている。
とくに、三味線では撥の材料となる象牙の問題が深刻だ。
代替品が開発されない限り、やがては美しい音を出す撥がつくれなくなる。
今のところ象牙と同じ音が出せる素材がないんですよ。これまでに開発された代替品では、象牙の足元にも及ばない。もっといいものをつくるには、大変費用がかかります。費用をかけても儲かることではないので、企業がやってくれません。こうした現状を社会にもっと知ってもらい、いろんな分野の人からアイディアをいただき、日本の音楽を残していかなければならないと思います。
ともすれば、日本の伝統文化は国粋主義と隣り合わせに思われるかもしれませんが、そうではないんです。有名な「勧進帳」だって、単なる忠義話ではないですよ。あの話で本当にすばらしいのは、東北に逃れようとする義経と弁慶を、関を守る役人である富樫が見逃したこと。第二次世界大戦中に命令に反してユダヤ人の逃亡を助けた外交官、杉原千畝と同じですよ。人間の本質的な美徳が描かれているから、長く愛されているのでしょう。
人と共に助け合う、利他のこころが和の文化の中心にある。そのことを日本は世界に誇っていいと思いますよ。
「自分はいつまで生きるかわからないけれど」と
言いながら、今藤政太郎氏が長唄の未来のために
思うことを話し始めたら止まらない。
そのあふれる情熱を、創作のパートナーでもある
長男の政貴氏をはじめ弟子や仲間たちが
受け止めて動き、次の時代の長唄を模索している。
三味線の撥が百年後どうなっているのか
まだ見通しは立たないが、
百年後の世界には彼らの弟子に学び、
政太郎伝説を弾き継ぐ人々がきっといる。
(了)