
十七世紀、江戸時代前期の加賀に始まり、一度は途絶えたものの十九世紀に
復活した磁器、九谷焼。𠮷田美統氏が生まれた窯元、錦山窯は、
九谷焼の技法のひとつ、色絵に金を用いる金襴手を得意とした。
若くして家を継いだ𠮷田美統氏は、伝統を受け継ぐことに飽き足らず、
新しい技法、釉裏金彩に挑む。そして、磁器に金箔で具象を表現するという
独自の手法を完成させ、唯一無二の作品世界を打ち立てた。
𠮷田美統(よした みのり)
1932(昭和7)年石川県小松市生まれ。高校在学中より陶技を学び、1951(昭和26)年19歳で錦山窯三代を継ぐ。昭和30年代にデザインを学ぶ等、德田八十吉らと新しい九谷焼を研究。1974(昭和49)年第21回日本伝統工芸展に初入選。1980(昭和55)年第三回伝統九谷焼工芸展優秀賞受賞。その他、受賞歴多数。2001(平成13)年重要無形文化財「釉裏金彩」の保持者(人間国宝)に認定。2012年(平成24)年文化庁主催海外展「日本のわざと美・近代工芸の精華展」(イタリア・フィレンツェ市)に選抜出品。
𠮷田美統氏が生まれた昭和初期、錦山窯のある小松市高堂には
茅葺屋根の家が並び、九谷焼の絵付を専門とする職人が多く住んでいた。
各家にそれぞれ得意な技法があり、子どもはそれを受け継ぐものとして育てられた。
私は父親から仕事を教わっていないです。父親は私が小学校三年生のときに亡くなりました。肺結核です。三十七歳でした。この辺りで流行って、何人も亡くなりました。でも、じいさんが元気で、職人さんもいましたから、家はわりあいにぎやかでしたね。ところが戦争が始まって職人さんは兵隊にとられますし、材料はない。窯の焚き木もない。金銀は禁止。うちの仕事は壊滅状態でした。
戦後、職人さんが復員して仕事ができる雰囲気になった時に、九谷焼の職人は進駐軍や日本に来た外国人のお土産をつくれということになりました。九谷焼は明治時代に外国の万国博に出品したので、外国人に喜ばれる大名行列や日本の風俗を描いた細密画といった絵柄があるんです。政府も輸出産業として九谷焼を支援しました。私は高校生でしたが、夏休みや冬休みには「待ってました」とばかりに手伝わされました。そうやって職人さんに仕事を教えてもらっていったわけです。
小松市花坂山と九谷焼
石川県の磁器、九谷焼は、江戸時代初期、加賀藩の支藩、大聖寺藩が九谷村(現・加賀市)で興した磁器づくりを源流とする。しかし、大聖寺藩は18世紀はじめに窯を廃止しため、「古九谷」と呼ばれる当時の磁器には謎が多い。
その後は百年ほど加賀で磁器の生産は行われなかったが、19世紀はじめ加賀藩は九谷焼再興を目指し、京の名工、青木木米を招聘。木米が金沢の藩窯で活動した約2年で加賀には窯が増えた。また、木米の助手で肥前出身の陶工、本田貞吉は木米の帰京後も加賀に残り、小松の花坂山で磁器の原料となる陶石の鉱脈を発見。それにより磁器生産が再び本格化し、現在に続く道がつくられた。
花坂山では現在もなお九谷焼の原料が産出されている。2019(令和元)年にオープンした小松市の「九谷セラミック・ラボラトリー」では花坂山の陶石をやきものの土にする工程を見学できる。
土産物として息を吹き返した九谷焼だったが、外国人向けの需要は進駐軍とともに去り、
石川県は窯業関係者に「日本の今の生活に合った器を」と国内向けへの転換を促した。
また、当時の若手は新しい工芸を求め、𠮷田美統氏はその潮流の中にいた。
その頃、イギリスのウィリアム・モリスが提唱したクラフトの考え方に出会い、使って楽しく、つくる人も楽しいハンドメイドというものに心がひかれました。日本の柳宗悦さんが言っていた「民藝」とは違うハンドメイドですね。それでデザインを勉強したり、家の仕事とは別に作品をつくってグループ展に参加したりする間に、加藤土師萌さんの遺作展で釉裏金彩を知るわけです。
私もずっと金彩で金を使っていましたけれども、金は剥がれやすいです。剥がれると「焼きが甘い」とクレームが来たりします。剥がれないように金彩の上から釉薬をかけても、金が釉薬に吸い込まれてうまくいきません。そうした金の難しさも知っていましたが、加藤土師萌さんの釉裏金彩に私は非常に感動し、ぜひ自分もやってみたいと思いました。けれども加藤土師萌さんのように金箔を張ったところに絵を描くのでは真似したようで面白くない。金箔そのもので文様を描いたらどうやろうか。どなたもできていないことをやってみようと思いました。
当時、各地の陶芸家が釉裏金彩を始め、いち早く高い評価を得た作家もあった。
𠮷田美統氏は他の作家の活躍を見ながら、自分だけの釉裏金彩を求め続けた。
他の方の釉裏金彩では、金箔をわりあい単純な線で切っていました。私は金箔で文様そのものを描きたいと思いましたが、どうしたらそのように金箔を切れるのかがわかりませんでした。金箔はすごく薄くて、電気が通るものには静電気でくっつきます。金箔の職人は電気を通さない竹を刀のように使っていますが、そんな道具では直線しかできません。また、薄い金箔は釉薬に溶けてしまうことがありますが、金箔を重ねると余計に文様をつくりにくい。金沢は金箔の産地ですし、他の分野でも金を使う人がいて、いろいろな話を聞きながら工夫を重ねました。結局、金箔は普通の3倍、5倍の厚さのものをつくってもらい、それを紙に挟んでくっつかないようにしました。鋏やピンセットは、友人の外科医に医療用の道具を教えてもらいました。
自分の思う形ができるまでに六年ぐらいかかっています。仕事は仕事としてあり、こっちはお金が出るばかりです。でも、世の中にないものをつくるのは、おもしろい。自分はじっくりいこうと思っていましたよ。
金箔で文様を描くことに成功すると、
厚みの異なる金箔を用い、
立体感のある表現も可能とした。
さらに地の釉薬の色を増やすなど、
挑戦を続ける。その創作姿勢は、
伝統にも成功にも安んじない努力と
まだ誰も見ていないものを夢見る力が
美の新境地を拓くことを後進に示唆する。
(後編へ続く)