
2001(平成13)年、𠮷田美統氏は釉裏金彩の技法で
重要無形文化財保持者(人間国宝)として認定された。
釉裏金彩に用いられる金箔も加賀藩ゆかりの伝統工芸品である。
伝統から新しいものを生み出すことが、別の伝統によって可能となる。
𠮷田美統氏の作品は、そんな風土の強みを体現する。
金という永遠の輝きを釉薬に閉じ込める𠮷田美統氏の釉裏金彩。
格調高い美の世界は、特別な金箔や金箔を張る漆など、材料をつくる人の手から
作家への手へと、手のリレーによって成し遂げられる。
金というのは有史以来人類が好んできた素材じゃないですか。やきものなんて千年くらい年月が経ちますと、酸化して色がくすんできます。金は酸化しないで、いつまでも美しいままです。金襴手も釉裏金彩も、そういう特別な素材を使っているのですから、どなたが見ても美しいと思っていただけるものをつくらないといけないと思います。
技術的には、変えられるものは変えてきました。うちは電気窯も早いです。釉裏金彩のように三回も四回も焼いて一つの作品をつくるのは、温度管理できる電気窯がなければ難しかったと思います。色すりも、乳鉢で手ですらないで機械がやってもそんなに変わりません。でも、色の原料の石を砕くミルは手でガラガラやっております。手でやるとトゲトゲが丸くすり減っていくので、これは手です。
何でも機械でやっていいということもなくて、絵付けにしても、成形にしても、訓練された手というのは機械とは随分違っています。人間の意図が、手によってつくられていく。それを鑑賞する仕方というものが日本にはあると思います。
金沢と金箔
石川県金沢市は国内産金箔の9割以上を生産する金箔の都でもある。前田利家が金箔の工人を連れて金沢に入ったのが端緒とされる。江戸幕府は江戸、京都以外での金箔製造を禁じたが、加賀藩ではひそかに続けられ、幕末に正式に許可を得たことで発展した。金箔を利用する仏壇、仏具の業者が多いこと、金箔製造に向く湿度の高い気候が発展の要因となった。外国でも金箔はつくられているが、日本の金箔は1万分の1(0.1μ)mmという薄さにまで打ち延ばすことに特徴がある。
2009(平成21)年、𠮷田美統氏は錦山窯の代表の座を長男で陶芸家の幸央氏に譲った。
現在では九谷焼の団体の活動でも幸央氏が活躍し、時代に即した情報発信に取り組んでいる。
九谷焼全体が昔とはだいぶ変わったと思いますよ。以前は小松は赤絵、金沢は金沢絵付、加賀市なら吉田屋風と、地域の特徴がありました。今はそれほど明確ではありません。つくり手を養成する石川県九谷焼研修所を卒業したら、どなたかについて修業しなくても、小さなギャラリーで作品を売ることができます。
そういう風に変わっても、今も昔も大事なことは時代に要求されているものを、つくり手がよくこなしていくことでしょう。次の時代に打って出ていくことをやっていかないものは、消えてしまいます。日本のやきものも、日本の人に使われなくなると何々焼とか言っていられなくなるかもしれない。けれど、日本には伝統的な本物を好むという感性は残っているように思います。
工芸品を評価する言葉にも日本にはいろんな言葉があるじゃないですか。「しゃれた形」「おもしろい」「味がある」とか、外国の方は訳せないといいますよ。そういう表現がいろいろあるのを飛び越えたところに格調というものがあるように思います。
陶芸以外の分野のつくり手とも交流し、釉裏金彩を完成させた𠮷田美統氏。
さまざまな分野の工芸がつながっていることを知るだけに、
日本で工芸の材料が手に入りにくくなっていることや、つくり手の減少を気にかける。
「日本のこころ」と聞くと、私はどうしても伝統的な産業を思います。伝統的な産業はよその国にもありますけれど、日本はすぐれているものが多いです。昔の日本では良い漆や木材が豊富に得られ、それを上手に活かしてきました。箸の食事で培われた指先の器用さも関係しているのではないかと思いますよ。
ですから、うちでは子どもにカレーライスでも箸で食べさせていたんですけれど、あるとき次男に「親父、カレーライスを箸で食べているなんて、うちだけだよ」と言われましてね。嫌だったみたいですね(笑)。私は今も箸でカレーライスを食べていますよ。
指先が器用というのは、日本にとって大事なことだと思うんです。日本の漆はなくなってきているし、着物を着る人がさらにいなくなったりして、今までのようにつくられなくなるものが増えていくかもしれません。それでも子どもたちには箸で指先を鍛えてほしいですね。
手の技である日本の工芸が
今後も発展していくには、
手を動かす楽しさや難しさを経験的に知り、
技が生み出す美を感得できる人々の
層の厚さが必要だ。
吉田美統氏は、工芸の未来は文字通り
子どもたちの手にあると思っている。
(了)