
日本の長引く状況は、企業や公の芸術文化支援にも影響を及ぼしている一方。
美術を愛する人はますます多く、多くの若者たちは新しい表現を求めている。
混淹とした美術界にあって、日本画家の巨匠、中島千波は、
人生で出会った様々な人々とのつながりを財産に、自由な表現の場を創出し、
あふれる好奇心とともに、次の時代を拓く才能の登場を見守っている。
終戦の秋に生まれた中島千波。生地は、一家の疎開先、長野県小布施町である。
父親は小布施の自然と人情を愛し、地元の人に絵の指導をするなど、復興期の地域の文化活動に参加した。
緑は子に受け継がれ、1992年、「おぶせミュージアム・中島千波館」が開館した。
僕はプロフィールにいつも「小布施生まれ」と書いています。疎開の記憶はないけれど、家族から小布施の話をよく聞かされ、「自分は小布施生まれ」という気持ちは子どもの頃からありました。
はじめて小布施に戻ったのは、中学一年生のとき。疎開中の父親が世話になった方がいて、志賀高原でスキーをしました。当時の小布施は今とは違って何もない田舎。雪がこんこん降っているだけでしたが、スキーはできるし、温泉もある。学生時代は親戚の家に遊びに行くような感覚で小布施に行きました。新婚旅行も小布施。小布施ならお金がかからない、というのもあったかな(笑)。
ずっと大事に思っていた小布施に、常設展示の場をつくっていただけたのは、大変ありがたいです。絵は高額で売れても、美術館に所蔵されなければ、限られた人しか見ることができません。美術館に収められてはじめてみんなのものとして残ります。そのほうが作品も幸せです。
父親が亡くなった翌年には、小布施で遺作展をさせてもらいました。父親が疎開中に描いた小布施を、地域の人たちが懐かしがってくれました。
2012年までの19年間、母校である東京藝術大学デザイン科で学生を指導した。
退任後も師弟の結びつきは強く、小布施が新しい才能の登場する場になれるよう、
教え子たちを中心とした若手の展覧会をプロデュースしている。
藝大では学生たちに「僕の真似をしなさい」ということは一切言いませんでした。だって、そんなのおかしいじゃないですか。自分で描きたいように描くのが一番いいに決まっています。よく言ったのは、「スケッチをしましょう」ということですね。本物を見て、本物以上に描きましょう、と。絵は二次元のイリュージョンですから、対象をよく見て、本物以上に描かないと本物に負けてしまいます。そのままで美しい花を、どう絵にするかということです。
才能がある若い作家が賞をもらったからといって、必ずしも作家として食べていけるものではありません。かといって、「売りたい」と思って描くと、媚びた絵になってしまいます。僕が彼らと展覧会を開くのは、自由に描きたいものを描いて発表する場が必要だと思うから。画廊の人たちに見に来てもらえば、互いに顔見知りになることもできます。画廊とのつきあい方って普通は大学で教えないけれど、僕は「愛想よく、笑顔で挨拶しなさいよ」と教えてきました。作家も画廊の人も人間同士ですから、ふだんのつきあいが何かのときには助けになります。
上下関係や権威に拘泥せず、美術界の内外で人との交流を楽しむ中島千波氏。
その明るさ、洒脱な振る舞いは、実は創作の姿勢に通底している。
聖徳太子が「和を以って貴しとなす」と言った、「和」という言葉が好きですね。僕がずっと人間の存在を描き続けているのも、人間が戦争なんかしないで、みんな仲良く、穏やかに、楽しく生きていけたら、という思いがあるからだと思います。
桜を描いているのも、そういうところがあるのかもしれない。自分が好きで描いているだけでなく、みんなに喜んでもらえたらいいな、と。日本の人は桜が好きだし、年をとった桜を見ているとき人と争う気持ちにならないでしょう。
日本の大事なところっていうのは、やはり「和」です。周りの人には挨拶して、仲良くする。女房は好かないかもしれないけれど、カラオケもそうです(笑)。仕事をする上では、ただくっついているのではなく、集まって何かをつくっていく。それを見て周りの人も刺激され、「それなら自分たちも」と向上していく。そういう関係性が僕は「和」だと思いますよ。
日本という国は横並びを重視し、
同調圧力が強いといわれるが、
中島千波氏が考える日本の「和」は
それとは異質で、自由である。
桜の古木も、表情を移ろわせる
「個」として描く氏の創作とは、
人間を探求する行為といえよう。
(了)