
明治から昭和にかけて、日本の人々は西洋の絵画を通じて自然主義などの思想にも触れ、
その影響は文学をはじめ多方面におよんだ。しかし、現代の日本ではアニメが盛んでも
美術に親しむ層は限定的で、アート市場も国の経済規模のわりには小さい。
フランスを拠点とし、同国でレジオンドヌール勲章を受章した画家、松井守男氏は
帰国のたびに自身の経験をもとに芸術とともに生きる幸福を語り、
芸術的感動によって生活や社会を豊かにすることを提案してきた。
松井守男(まつい もりお)
1942年愛知県豊橋市生まれ。武蔵野美術大学造形学部油絵学科を卒業と同時に政府給費留学生として渡仏。アカデミー・ジュリアン、パリ国立美術学校で学ぶ。晩年のピカソとの交流に多大な影響を受ける。1985年発表の「遺言」で面相筆を使う技法を開始。1997年フェッシュ美術館での個展が縁となり、コルシカ島に移住。2000年仏政府より芸術文化勲章、2003年レジオンドヌール勲章を受章。愛知万博、サラゴサ万博で仏政府公式画家に選出。日仏交流150周年の2008年、久賀島にアトリエを構える。上賀茂神社、神田明神などに作品を奉納。2022年5月30日逝去。
政府給費留学生として渡仏して以来、フランスを拠点とした松井守男氏。
長きにわたるフランス生活のスタートは、想定外の挫折と自信喪失だった。
フランスに国費留学というと、エリートっぽいですよね。自分でもそんな気になっていましたが、現地ですぐ勘違いだと思い知らされました。
パリ国立美術学校が始まる前にアカデミー・ジュリアンという子どもや社会人も通う美術研究所のようなところに行ってみたら、日本とはレベルが違う。僕なんか箸にも棒にもかからない。作品を互いに批評し合う会では、「好きな作品」として挙げられることも、「下手だけど面白い作品」に選ばれることもない。フランスでは技術ではなく個性を評価するので、下手でも個性があれば認められます。その中でまったく相手にされないことは大変ショックでした。
自分の実力に自信がなくなり、入学資格のあるパリ国立美術学校の入学試験をあえて受けてみました。合格できなかったら帰国しようと思ったけれど、補欠で合格。補欠でも嬉しかったですよ。日本からの留学生は普通一年目から油彩クラスに入るのですが、僕は補欠で入ったビリですから、基礎クラスで石膏デッサン。おかげでゼロから勉強をやり直すことができました。いきなり油彩クラスに入っていたら、勘違いしたまま帰国したでしょう。
努力の甲斐あって留学三年目には校内で一目置かれる存在となるが、
今度は嫉妬に悩まされ、ついには教授の嫌がらせで退学を余儀なくされた。
しかし、そのトラブルのおかげで、憧れのピカソと知り合うことになる。
僕の信条は「捨てる神あれば拾う神あり」。本当に困っているときこそ必ず救いの手が伸びてくる。学生時代、放校になったときもそうでした。
ちょうどその頃、僕も参加した若手作家のグループ展にエドゥアール・ピニョンという高齢の画家が見に来てくれた。彼に聞かれるまま自分の状況を話すと、大変同情してくれ、「君の希望を何かひとつ叶えてあげたい」と。そのとき、「ピカソに会わせてほしい」という言葉が口をついて出た。ピカソは私の憧れの人。もちろん普通に会える人ではありません。けれどもピニョンはピカソの親友で、本当にピカソに会わせてくれたのです。
はじめてピカソのアトリエを訪問した日のことは、今でもよく覚えています。ゲルニカの下絵やすごい作品が並んでいて、その場の雰囲気にのまれていると、「おまえと会っている間に傑作が描けたかもしれない」と、あの黒い目がギョロッ。怖いなんていうものではありません。「おれの絵をどう思う」と聞かれましたが、世界のピカソにそんなことを言われたら、頭の中は真っ白です。思わず「光しか見えません」と答えたら、ピカソはニヤッと笑い、「明日から来たいときに来ていい」と言ってくれました。
その後、親しくなってから、ピカソから「光を出せるのがプロである」と聞きました。人を感動させるのがアートであり、感動は光。光を放つことができる人が本当のアーティスト。美術でも音楽でも、きれい、上手では人を感動させられません。ピカソはまさに光でした。
1973年に没したピカソの「おまえはきっとおれのようになる」という言葉を支えに、
パリで活動を続けるうちに、一度も帰国しないまま、松井守男氏は四十歳を迎えた。
画家として生活はできていたが、現状に満足できない自分も心の中に存在していた。
パリで画家として生きていましたが、自分が天才でないことは十分過ぎるほどわかっていました。ピカソに会って十年以上が過ぎ、四十歳になったのに、何もなしえていない。このまま死んでいいのか。それは親に申し訳ない。生きているうちに死ぬ気でやってみようと、一番大きいサイズのキャンバスを買ってきて、遺作のつもりで作品をつくり始めました。そのとき使った筆は、パリで見つけた日本の面相筆。偶然にも故郷の愛知県豊橋のものでした。
一番細い面相筆で一番大きなキャンバスに絵を描くなんて、ピカソだってやっていません。自分の見たこと、思ったことをすべて描ききってやろうと、面相筆で描きこみ描きこみ、色を重ねました。そのうち無意識に「人」と描いていました。「そうか、すべては人だ」と思い、来る日も来る日も「人、人、人、人」と続けていきました。
「この絵を描くことができたら、他はどうでもいい」と思って、二年くらい過ぎた頃です。キャンバスを改めて眺めたら、光が浮かびあがっていた。やっと見つけた、僕だけの光でした。
技術の上手下手ではない、
個性という基準を
フランスで学んだ松井守男氏。
自分という個性を見極めようと、
二年半をかけた作品、
「ル・テスタメント-遺言-」の
比類ない個性は人々に深い感動を与え、
その光により、
「光の画家」と呼ばれるに至った。
(後編へ続く)