
地中海文明とともに発展し、古代の日本でもつくられていたガラス。
明治時代は西洋の先進的な技術を取り入れ、国産ガラスの品質向上の努力が続けられた。
第二次世界大戦後、大量生産のガラスの器が日本中に出回るようになったが、
黒木国昭氏はその風潮に抗うように芸術としてのガラス工芸を求め、
日本の美を表現した作品群で世界各国に多くのファンを持つに至る。
黒木国昭(くろき くにあき)
1945年宮崎県生まれ。高校卒業と同時に上京、山谷硝子に就職。社の内外で研鑽を重ね、1974年より創作活動を開始。1977年国家ガラス技能一級を取得。1984年独立。1985年薩摩切子復元事業に工芸部長として招聘される。1989年宮崎県綾町に工房を創設。1991年ガラス工芸では初めて国の「現代の名工」を受賞。ガラス素材に琳派をはじめとする日本の装飾美を融合させた作品は国内外で高く評価される。1995年フランス・パリ芸術祭大賞受賞、1996年ローマ国際美術博覧会ローマ大賞受賞他、受賞多数。日本ガラス工芸協会功労会員。ジャパン・グラス・アート・ソサエティ理事。株式会社グラスアート黒木代表取締役。
生まれ故郷に近い宮崎県綾町でガラス工房「グラスアート黒木」を率いる黒木国昭氏。
仕事の原点は、1963年家を助けようと就職した東京のガラス製造会社である。
パンフレットの印象で決めた会社は、新人がどんどん逃げ出す厳しい職場だった。
私が育った時代、生活には戦後の貧しさが残っていました。我が家はホルスタインの乳牛1頭を飼っていて、その牛乳が唯一の現金収入源でした。小学生のときは朝5時に家族と搾乳した牛乳を私が配達し、瓶を入れる箱を載せたまま学校に行きました。遊ぶ時間はありませんでしたが、自分が家族を助けているという満足感がありました。
高校卒業後はすぐ就職です。入社の日のことはよく覚えています。急行高千穂号で約30時間かけて上京し、そのまま会社に行ったのです。会社の中を案内されていると、カレットというガラス屑の山がありました。それが夕方の西日に照らされているのが宝石のように見え、「こんなにきれいなのか」と非常に衝撃を受けました。ガラスの美しさに初めて感動した瞬間です。
当時のガラス製造は今でいう3Kです。溶鉱炉がありますから、暑さは半端でない。火傷や怪我も多い。初日に40人いた新入社員は日に日にいなくなり、最終的に残ったのは3、4人でした。私がなぜ残ってこられたのかを考えると、最初に感動があり、「この仕事でやっていきたい」という気持ちになれたのが大きいと思います。
COLUMN
ガラス工芸の技法
ガラスの素材は主に、珪砂、ソーダ灰、石灰石。これらに着色用の素材や加工しやすくする素材などを加え、様々な技法によって成形や加飾を施す。
ガラス工芸の種類として代表的な「吹きガラス」はローマ帝国時代から行われている成形方法である。高温で溶かしたガラスを「吹き竿」と呼ばれる金属の管の端に巻きつけ、反側の端から息を吹き込む方法は、基本的には古代と変わらない。
型を使う技法では、溶解したガラスを型に流し込む「型押し」、材料を入れた型を炉に入れて中身を溶解させる「パート・ド・ヴェール」などがある。また、断面に文様ができる棒を金太郎飴のように細かくカットしたものを並べ熱で接着させる「ミッレフィオーレ(千の花)」はベネチアグラスの技法として知られる。
装飾方法として代表的な「カットグラス」はグラインダーを使用して表面に模様を切り出す技術で、日本では江戸時代から「切子」と呼ばれ親しまれている。ガラスの表面に熱したガラスの塊を接着させる「アップリケ」のような装飾技法もある。
黒木国昭氏の作品は何種類もの技法を組み合わせ、複雑な色や形をつくり出しているのが特徴的である。大きな作品では何人ものスタッフが同時に複数の加工作業を行い、タイミングを合わせて一つの作品に結実させる。
高度経済成長期、ガラス工芸の一般の認知度はまだ低かったが、
美術界におけるガラス工芸の地位を高めようとする先駆者たちも活躍していた。
その時代にガラスの世界に飛び込んだ黒木国昭氏も仕事とは別の表現を志すに至る。
当時ガラスの会社は東京に300数社、大阪に300数社あり、ほとんどが大量生産で安いものをつくっていました。私のいた会社も主力は大量生産品でしたが、私はそれとは違うものを目指すようになります。
会社で学べることだけでは、求めるものに足りない。彫刻の技術を習いにいったり、昼に仕事がない日に他の会社でパートのようなかたちで働いたりして、その会社の技術を勉強しました。休みの日には美術館や百貨店の美術画廊に通い、たくさんの作品を見て歩くのが楽しみでした。
やがて休暇中に自分のお金で借りた作業場で作品制作を行い、コンクールに出品するようになりました。入社十二年目には社長から「会社の作品として販売してもかまわないなら」という条件で、企業内作家という名前をいただきます。以後は就業時間内に作品制作することを許されました。いい人たちに巡り合い、勉強できる環境をいただけたことに感謝しています。
黒木国昭氏が多彩な技術の習得を必要としたのは、ある目標のためだった。
それはガラスで日本の琳派の美を表現することである。
日本では「ガラスは西洋のもの」という印象がとても強いのではないかと思います。「ガラス工芸は洋間に飾るのはいいけれども、日本的な建物ではどうだろうか」ということはよく言われました。日用品としてのガラスは誰もが使っていても、美術品としてのガラスの市場はまだなかったのです。そういう中で、私は日本の装飾文化の中心である琳派の世界をガラスで表現することを目指していました。
琳派との出会いは、仕事を始めて少し経った頃です。東京国立博物館で琳派の展覧会があり、そこで見た尾形光琳の「紅白梅図屏風」の生命力あふれる力強い表現に私は非常に感動しました。あのような日本の美を自分も表現できるようになりたい。その思いから琳派を研究し歴史文化も追いかけました。
目標に向かっていくために自分の立ち位置はどこかとしっかり考えてみると、自分に足りないものが見えてきます。私はこの分析とリサーチを繰り返すことで、技術を積み重ねてきたのです。
飾皿 金・プラチナ象嵌「光琳」
琳派との出会いを
ガラスという素材に結びつけ
表現者の道を歩き始めた若きガラス職人は、
西洋と東洋の融合を目指して技術を磨いた。
やがてその技術は他の追随を
許さぬ高みに至り、
作品は洋の東西を問わず
世界で愛されるようになる。
(後編へ続く)