
英語でJapanといえば日本を意味するが、小文字で始まるjapanは漆を意味する。
それは磁器がchinaであるように、日本の漆器が欧州で珍重されたことに由来する。
日本に数ある漆器の産地の中でも、香川は芸術的な装飾技術を受け継ぐことが特徴的だ。
重要無形文化財保持者(人間国宝)認定された香川の漆芸家は六人におよぶ。
その一人である山下義人氏は、効率重視の風潮に流されて漆芸が絶えることのないよう、
作品の発表とともに異分野との協働や後進の指導にも力を注いでいる。
山下 義人(やました よしと)
1951年香川県生まれ。香川県立高松工芸高等学校漆芸科卒業後、のちに重要無形文化財「蒟醤 」保持者となる磯井正美に師事。1976年からのちに重要無形文化財「蒔絵」保持者となる田口善国に師事。1989年・1994年日本伝統工芸展朝日新聞社賞、2005年・2011年日本伝統工芸展日本工芸会保持者賞を受賞。身近な自然をモチーフにした、新鮮な意匠と濃密な構成が高く評価される。蒟醤と蒔絵を併用した作品も多い。1999年より金刀比羅宮の木地蒔絵の復元制作事業に携わる。1995年四国新聞文化賞を受賞。2007年紫綬褒章、2021年旭日小褒章を受章。2013年重要無形文化財「蒟醤」保持者(人間国宝)認定。
農家に生まれた山下義人氏が漆芸に出会ったのは、地元の香川県立工芸高校。
漆の表現力に魅了され、高校卒業後はのちに蒟醤の人間国宝に認定される磯井正美氏に師事。
さらに、憧れの作家で、同じく人間国宝となる田口善国氏に師事すべく、二十五歳で上京した。
私の今があるのは二人の師匠のおかげ。何も知らない若い人に影響をおよぼすのは師匠です。最初に教わった磯井正美先生は、一風変わった方でしたね。長髪でマントを着て闊歩する姿が実に颯爽とした、おしゃれな人です。座右の銘は「非真面目」。真面目でも不真面目でもないのが難しい。
その次に師事した田口善国先生はさらに変わっていて、動物なり植物なりを神様のような視点で見ることができる方でした。それらが何を言いたいのかキャッチできる。普通なら眉つばですが、田口先生には本当にそういう能力があったと思います。
田口先生は東京藝大で教えていらしたから、ご自宅に伺うのは土日のどちらか。平日はアパートで作品をつくり、週末に見ていただいてお話を聞く。美学や人間としての生きざまといったことをいろいろ語られ、お話が終わるとお酒になります。ところが一年半ぐらいしたら、「これ以上いると私の影響を受けるから、あとは自分でやりなさい」とおっしゃった。ものをつくる人間にとって師匠に似過ぎるのは大敵です。最初は誰でも真似から入っていきますが、ある程度できるようになったら独自の世界をつくっていかなきゃいけない。そのとき「もう高松に帰りなさい」と言われたのも、先生のインスピレ―ションだったと思います。
COLUMN
香川県と漆芸
香川県の漆芸は、江戸時代後期の玉楮 象谷 に始まる。刀の鞘塗師の家に生まれた象谷は、父から受け継いだ篆刻の技術に加え、京の寺院に伝来していた中国の漆器や、茶人が珍重する東南アジアの漆器を研究した。当時は日本の蒔絵や螺鈿の技術が爛熟していた時期であり、象谷の着眼点は大変ユニークだったといえる。
大陸の作品に学んだ象谷は、色漆を塗り重ねて文様を彫る「彫漆 」、文様を彫ったところに色漆を埋めて研ぎ出す「蒟醤」、色漆で文様を描く「存清 」の三技法を得意とした。また、竹を編んで素地とする「籃胎 」も手掛けている。高松藩主松平家はこれらを讃岐の名産品とすべく奨励した。
明治に入ると香川県では茶人や文化人向けの漆器づくりがさかんになり、大いに隆盛を極めた。大正時代には磯井如真 が独自の研究により芸術性を高めた。その後、音丸 耕堂 、明石 朴景 らが続き、戦後も芸術的な美の伝統が受け継がれた。
高松に戻った当時、何をつくるべきかわからないまま手を動かしていたという山下義人氏。
若手作家として公募展などでの他人からの評価がとても気になった時代、
かつて師から聞いた言葉と妻の存在が、妥協のない創作を続ける支えになった。
たいていの人は作家に作品を見せられたら「いいじゃないですか」となります。でも昔から言うじゃないですか、「芸術家殺すのに刃物はいらない。ほめ言葉で十分」って。あれは本当。その点、女房は辛口です。夫の私が言うのもなんですが、美的センスもなかなかいい。やっぱり夫に良いものをつくってもらいたいからでしょうね、辛口の本音を言ってくれます。これは大変助かりました。
こういう仕事で自分の世界をつくるには、時間がかかります。私も十年、二十年くらいかかって、おぼろげながらに自分だけの世界を見つけたんじゃないかな。ただ真面目にやっただけでは見つけられない。それこそ「非真面目」がいいんです。
たとえば大勢で東に向かって歩いていると、非真面目な人はときどき列からそれ、また戻ってくる。真面目な人は横道にそれることなく歩いていくけれど、非真面目はよそを見ているからさまざまなものを見て聴いて、人とは違うことを考えつくことができます。不真面目な人は戻らない。そもそも不真面目な人は東に向かっていないかもしれない。東というのは、人として目指すべきものの比喩ですね。非真面目は独自の視点でいろいろなものを見たり考えたりしながら、目指すべきものを目指します。
山下義人氏が重要無形文化財保持者として認定されている「蒟醤」は、讃岐漆芸の代表的な技法のひとつ。中国南方やタイ、ミャンマーに起源があり、室町時代に中国から日本に蒟醬技法でつくられた漆器が伝わった。厚く漆を塗り重ねた面に文様を「剣」と呼ばれる彫刻刀で彫り込み、そこに色漆を埋め込んだ表面を、炭で平らに研ぎ出す。それにより色漆の線が美しく表現される。
近代に磯井如真が点を彫って漆を入れることを繰り返す「点彫り蒟醤」の技法を開発し、点の大小や粗密によって奥行や立体感を出せるようになった。
写真は山下義人氏が香川県漆芸研究所のために制作した工程のサンプルである。①黒漆で上塗りを施し、②美濃紙に描いた輪郭を転写、③線彫りをする(蒟醤彫り1回目)。④そこに黄色の色漆を埋め込み(色埋め)、⑤乾いたらアブラギリの木炭で研ぎ、文様以外の部分の黄色の漆を取り除く(研ぎ出し)。⑥そこに点彫りを施し(蒟醤彫り2回目)、⑦赤い色漆を塗り(色埋め2回目)、⑧また炭で研ぐ。⑨器全体をエゴノキの木炭で研いで平らにしたのち(呂色研ぎ)、⑩生漆を摺り込み乾かした後、砥の粉を油で練ったものを綿につけて磨き、傷を細かくする(摺漆・砥の粉胴擦り)。⑪摺漆を塗った後、磨いて完成である。乾かしては塗りを繰り返すため、最初のサンプルから最後のサンプルまでの工程で2か月程度かかる。
弟子を持つ立場になってからは、人を育てることの難しさをつくづくと感じている、
自分の考えを押し付ければ、自分のコピーをつくるだけになってしまう。
また、技術の飲みこみのよい弟子が、すぐれた作家になるとは限らない。
若い頃、田口先生に「人間形成が一番ですよ」とよく言われました。その頃はフンフンと聞いていただけですが、だんだんと年がいって意味がわかってくるようになりました。人間形成が進むと、より高いものを考えつく。考えついたら形にしようとする。その考えがつくところが一番大事ですね。
技術はこころにあるものを具体化させるための方法です。本人の次元が高くなれば高くなるほど、高い技術が必要になってきます。必要になったら訓練するしかない。つまり、技術はつねに後です。技術が先になると、嫌らしい作品になってしまいます。
若いときは技術を見せようとする気持ちが強いものです。「どうだ!」とね。それが年齢がいくと、こころを見せようという気持ちになる。そのために余計なことは排し、言いたいことだけに絞ってしまいます。
最近の私がよく言うのは、あえて完成させないこと。「未完成の完成」を目指す。そのために、完成させて引き算をする。するとそこに未完成の美が生まれます。完成された美しさは、完成しているから見る人や使う人との間に壁ができる。未完成にはそれがない。だから身近に感じられる。でも、それは若いときには怖くてできない。私も七十歳を過ぎたから、こういうことが言えるようになりました。
無形文化財は歴史上または
芸術的に価値の高い「わざ」と定義される。
しかし、山下義人氏を指導した
二人の人間国宝が弟子に語ったことは
わざよりも、むしろ人としてのあり方であった。
その意味を深く理解できるようになった今、
師と同じように、わざを伝える責任を負って
人について語っている。
(後編へ続く)