
唐津焼は佐賀県唐津市近郊でつくられる焼きものの総称である。
戦国の世、朝鮮半島からやってきた陶工たちが大陸の技術を伝えたことに始まり、
江戸時代、唐津の素朴で表情の豊かな茶陶が茶人たちに賞玩され、
また唐津藩から毎年将軍家に献上されたことなどから、唐津焼の名は天下に知れ渡った。
当時、藩の御用窯をつとめていた中里太郎右衛門窯は、現在十四代が当主をつとめ、
この地に伝わる多彩な技術を受け継ぐとともに、心のままに新しい表現に取り組んでいる。
十四代
中里太郎右衛門(なかざと たろうえもん)
1957年佐賀県唐津市に十三代中里太郎右衛門の長男として生まれる。武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業、同大学大学院修了。多治見市陶磁器意匠研究所、名古屋工業技術研究所(現・産総研中部センター)を経て、1983年中里太郎右衛門陶房で作陶を開始。1990年第22回日展特選受賞、 第40回佐賀県展にて県知事賞・永竹威賞受賞。2002年十四代中里太郎右衛門を襲名。2003年第50回日本伝統工芸展に初入選。2007年日本工芸会正会員。2010年佐賀県陶芸協会副会長に就任。2011年唐津市政功労者表彰、紺綬褒章を受章。
陶磁器の愛好者は、江戸時代から続く佐賀県の三つの窯元、
唐津焼の中里太郎右衛門窯、有田焼の酒井田柿右衛門窯、今泉今右衛門窯を
「三右衛門」とも呼ぶ。三右衛門の中でも中里太郎右衛門窯の歴史は最も古く、
初代は関ヶ原の戦いよりも前から作陶をしていた。
うちは五代目が記した「中里家古文書」というのがあって、土はどこから採ったとか釉薬はどうしたとか記録が残されています。また、父の十三代が学者肌だったもので、お寺の過去帳から五代目以降のことを紐解いた。おかげで初代から現在までの家系図がしっかりしています。
初代は秀吉の文禄・慶長の役の頃に伊万里の田代という窯で焼いたと伝えられます。二代目が椎の峯というところで福本家、大島家とともに唐津藩の御用焼物師をつとめるようになりました。選ばれた理由は技量とか技術とか総合的なものかと思います。想像ですけど、殿様の前でつくって見せたとか、そういうことがあったのではないでしょうか。三代のときに藩命で唐津に移り、五代のときからは今の場所です。
明治に藩がなくなって御用窯制度はなくなりますが、うちだけは細々と続けていました。当時は半陶半農みたいな感じで、食べるものをつくりながら焼きものの注文があったときだけつくっていたのだろうと思います。
唐津焼は十六世紀後半、この地の領主、波多氏が朝鮮半島の陶工を連れてきて領内で陶器をつくらせたのが始まりと考えられている。波多氏の拠点、岸岳城があった岸岳山麓には日本最古の登窯など当時の窯跡が点在し、「肥前陶器窯跡」として国の史跡に指定されている。
かつては豊臣秀吉の朝鮮出兵ののちに唐津焼が始まったとされていたが、近年では出兵開始前に亡くなった千利休が唐津焼を所持していたことが判明し、定説が覆った。
それまでの日本になかった技術でつくられた唐津焼は、十七世紀初頭、大ブームを巻き起こした。その後、磁器の登場により人気は落ち着くが、西国では焼きものの代名詞は「瀬戸物」ではなく「唐津物」となった。
唐津の窯業が停滞していた昭和初期、十四代の祖父、十二代中里太郎右衛門は、
「古唐津」と呼ばれる古い唐津焼を研究し、唐津焼再興への道を拓いた。
底板に紐状の粘土を積み重ね、内側に当て木をして、外側から叩いて成形する、
「叩き」の技法も十二代によって蘇り、中里家の代表的な技法の一つとなる。
叩きは平面の道具で丸くなるように叩きます。でも、同じ場所を何回も叩いてはいかんのですよ。父は「二回は叩かん」と言っていました。また、力を入れて叩けばいい、というものではない。ポンポンと叩くときに<気>を入れるのが大事。気を入れてやらないとシャキッとならないです。何回も叩くと、だらーんとする。粘土の固さが非常に重要で、固すぎると割れるし、軟らかすぎると叩いているうちにヘタってしまいます。
同じ叩きでも、祖父、父、私で違います、祖父の場合は、底板をつくって細い紐を積み重ね、ある程度高くなったら晒しを水につけていったんのばします。父はその紐が太かった。細い紐より高さがある分、早いです。私の場合は、叩かないで轆轤でつくる「板おこし」と「叩き」の半々ですね。底板をつくって粘土をさかさにぽんと置いてのばす。壺などは半分くらいこのやりかたで成形して上積みします。これが一番早い。うちは一つのやりかたを頑なに守るというのではなく、自分のやりやすい方法でやればいいという考えなんですね。
室町時代までの日本の陶器は、瀬戸以外は焼締め(無施釉)で、瀬戸の釉薬も緑色っぽく発色する灰釉と茶色の鉄釉のみだった。一方、朝鮮の技術が入った十六世紀末の唐津では、筆で文様を描いた器(絵唐津)や、今まで日本になかった色の器(朝鮮唐津、黒唐津、斑唐津など)がつくられた。なお、朝鮮唐津は、朝鮮でつくられたものと見分けがつかない唐津焼だったことから、その名がある。
唐津焼の発展の過程で、古田織部が唐津焼の指導にあたったのではないかともいわれ、茶陶として江戸時代から高く評価されてきた。茶の世界では今も「一井戸(高麗茶盌)、二楽(楽焼)、三唐津」あるいは「一楽、二萩(萩焼)、三唐津」といい、茶盌のトップクラスに唐津焼を位置づける。
子ども時代から中里太郎右衛門窯の跡継ぎとして育てられた十四代。「造形の勉強に」と
父にすすめられ美大で彫刻を学んだ後、釉薬の研究に取り組み、
実家で焼きものをつくり始めたのは二十八歳と早くはない。
はじめは釉薬に凝ったオブジェばかりつくっていたが、やがて伝統的な唐津焼の魅力に気づいた。
お茶盌をはじめてつくったのは、平成10(1998)年に肥前名護屋城で朝鮮出兵四百年を記念して行われたお茶会のときですね。父と親しかった遠州流の先代のお家元が日本と朝鮮の武将の末裔の方にお茶を差し上げるという会で、その記念に四百個限定のお茶盌を販売するために二千個を焼いたんです。やってみたら無心に手を動かしてお茶盌をつくるということが楽しくなってきましてね。それから伝統的な唐津焼が楽しくなってきたのかな。当時つくったものを今見ると、轆轤でのばすことが上手くできていないのが多いですけどね。
オブジェを作っていたときは考えに考え、やっていましたけれど、伝統的な唐津焼では考えながら手を動かすのはよくないです。基本的なつくりかたに手が馴れてしまって、なりゆきにまかせるようにして、何も考えないで自然に形ができていくほうがいいです。無心に、ただ手を動かすだけ。無作為ということですね。
十四代が襲名する前につくったオブジェ。庭の一角に雨ざらしにしているおかげで、古い庭石のような色合いに。
唐津焼を無心につくることは
禅の修行に似ている
禅宗の祖、達磨は、「無心」とは
「真心」を得ることと語った。
十四代中里太郎右衛門氏は
真の美のために無心に手を動かす。
(後編へ続く)