
円山公園の枝垂桜
円山公園の枝垂桜は、二代目。佐野藤右衛門氏の父親である十五代が、初代の枝垂桜の種から育て、息子の誕生記念に植えたうちの1本を1949年に移植した。その翌年京都が台風に襲われた際、十五代はこの木を抱えて倒壊を防いだという。
桜を愛するこの国には、桜の木の健康を見守り、
貴重な桜の子孫を残す、「桜守」と呼ばれる人々がいる。
その代表が、京都の佐野藤右衛門である。
佐野藤右衛門とは、江戸時代、仁和寺の植木職人に始まる庭師の号。
大正時代、京都府立植物園を手伝ったことをきっかけに、
十四代が桜の研究を始め、十五代は戦後日本を桜で支えた。
そして当代、十六代佐野藤右衛門は、桜守三代目として、
米寿を過ぎてなお、桜のために全国を飛び回る。
桜を愛するこの国には、桜の木の健康を見守り、貴重な桜の子孫を残す、「桜守」と呼ばれる人々がいる。その代表が、京都の佐野藤右衛門である。佐野藤右衛門とは、江戸時代、仁和寺の植木職人に始まる庭師の号。大正時代、京都府立植物園を手伝ったことをきっかけに、十四代が桜の研究を始め、十五代は戦後日本を桜で支えた。そして当代、十六代佐野藤右衛門は、桜守三代目として、米寿を過ぎてなお、桜のために全国を飛び回る。
庭師 十六代 佐野藤右衛門
1928年京都市生まれ。京都府立農林学校卒業。第二次世界大戦末期、義勇軍として満州に派遣される予定だったが、病気により京大附属摂津農場で終戦を迎える。帰郷後、父、十五代佐野藤右衛門のもとで庭師として研鑽を積み、1957年ユネスコ本部の日本庭園(イサム・ノグチ設計)をはじめ、海外でも活躍。1981年、十六代を襲名、以後、祖父の代に始まる桜の保存活動を引き継ぐ。ユネスコのピカソ・メダル、勲五等双光旭日章、黄綬褒章を受章。(株)植籐造園会長。著書『桜のいのち庭のこころ』(草思社)ほか。
ヒマラヤを起源とし、中国大陸、朝鮮半島を経て、日本列島にたどりついた桜。
日本に自生する桜が百種類以上あるのは、変化に富む自然に対応した結果だ。
そのため、佐野藤右衛門氏の桜の話は、自然の摂理の話に始まる。
ヒマラヤを起源とし、中国大陸、朝鮮半島を経て、日本列島にたどりついた桜。日本に自生する桜が百種類以上あるのは、変化に富む自然に対応した結果だ。そのため、佐野藤右衛門氏の桜の話は、自然の摂理の話に始まる。
日本列島、九州から北海道まで、山桜がまずあるわな。それも、土地土地によってちょっとずつ違うわけや。だいたい群馬、栃木ぐらいから北に行くと、この辺と違うて、大山桜か紅山桜に変わっていきよる。そういうものが交雑して、土地土地でいろんなものが出来てくる、というわけや。そして、太平洋側と日本海側でちょっと違うねん。
そういう気候風土によって、動物も違うわけや。昆虫類も違うわけや。全部違う。みんな自然に対応して生きとんのや。対応しきれないときは枯れる。動物も対応しきれないときは数が減っていくのや。でも全部は減らへんのや。それがよくわかるのが松食い虫。松食い虫に山やられたけど、何本かは枯らさずに残していきよんねん。子孫を残していかなあかんから。肉食動物も腹減ったときだけしか草食動物を襲わへん。それがうまいこと棲み分けしてやってるから、森も無茶苦茶にならへんし、うまいこと全部が棲めるようになっとるねん。桜の自然の生え方もそうなんや。
毎年、二月下旬頃から佐野藤右衛門氏は各地の桜の開花状況を見て回る。
貴重な桜の現状を確認するため、山中を歩くこともある。
その際、周囲の動植物を観察し、なぜそこにその桜があるかを考える。
毎年、二月下旬頃から佐野藤右衛門氏は各地の桜の開花状況を見て回る。貴重な桜の現状を確認するため、山中を歩くこともある。その際、周囲の動植物を観察し、なぜそこにその桜があるかを考える。
桜の話いうたら、わしオスとメスの話するのや。人間でも男と女がいて子どもができるやろ。桜もそうなんや。そういうのがなかったら、種がでけへん。
日本の自生の桜というのは、海抜400mぐらいまでのもんや。まず花が咲いたら、蜜を餌にするも鳥とか昆虫類が来て、花粉を雌しべにひっつけてくれるわけや。それでうまく受精すると実がなって、今度は実を食べる鳥が来る。それが実を食うて、糞と一緒に種をばらまく。その土地の条件が合えばそこで育つ、というわけや。小鳥の生息地は海抜300mくらいや。それ以上は猛禽類がおって、食われるから行かへん。山に入ると、それがきっちり線になって分かれとる。桜の線の上に咲きよる白い花は、辛夷(こぶし)や。それで山の高さも分かるもんや。
山の中に入ったら、とんでもないもんが見つかることがあるねんや。桜は交雑を繰り返して、突然変異でバーンと花の枚数が増えたり、他と違うもんができる。それが10年に1回か、50年に1回か、100年に1回かくらい、たまたまそうなったのが見つかること、今でもあるんや。
本来、土地それぞれに方言が異なるように、土地ごとに桜の花も異なるが、
現代の日本では全国的に染井吉野が主流となっている。
明治以来、扱いやすい染井吉野を、時の都合で植えたり切ったりするうちに、
人々は花見が下手になった、と佐野藤右衛門氏は嘆く。
本来、土地それぞれに方言が異なるように、土地ごとに桜の花も異なるが、現代の日本では全国的に染井吉野が主流となっている。明治以来、扱いやすい染井吉野を、時の都合で植えたり切ったりするうちに、人々は花見が下手になった、と佐野藤右衛門氏は嘆く。
染井吉野は人間の都合で人工的に増やしたもんやから、自然の状態でないわけや。枝先を継いで育てているだけや。幹かてあらへん。幹のように見えるのは枝や。
染井吉野自体にも歴史があってな、徳川の終わりか明治の初めに彼岸桜と大島桜が交配したんやろう、と言われとるんや。接木が簡単で、一気に花が咲いて、活着率も良かったんや。成長も早かった。これはいいわ、言うて接木で増やして、そこそこになった時、ちょうど日露戦争の戦勝記念でバーッと植えたんや。それが今残ってる染井吉野の一番古い奴や。もう余り残ってへん。百年ぐらいして皆枯れて、染井吉野は寿命が短いちうことが、初めてわかったんや。
花見も、本当に花見できるとこ、今はほとんどあらへん。本当の花見は花の下でしかできへんのや。他の花は太陽向くけど、桜だけは下向いて咲くやろ。花の下に入らなんだら、本当の桜の良さはわからへん。
花見するなら、まず土地の歴史や。桜があるところには、土地土地の物語があるはずやからね。桜がなんでここにおるんか、それを知ったら、本当の花見ができるんや。