
森林の豊かな日本では縄文時代すでに木材の生活の道具がつくられていた。
時代とともに専門性が高まり、鑿などで木の塊を削り出す刳物、板や角材を組み上げる指物、
薄い板材を曲げてつくる曲物、轆轤で成形する挽物、漆を塗る塗物等に分かれるが、
昭和の京都で活躍した黒田辰秋は木地からの一貫制作により独創的な美を追求した。
孫弟子にあたる宮本貞治氏は黒田家の技と美に学び、伝統的木工芸を未来につなぐ役目を担う。
宮本貞治(みやもとていじ)
1953年京都市生まれ。家具職人の父のもと幼少期から木工に親しむ。1973年黒田乾𠮷に師事。1984年独立、滋賀県湖西に移る。
日本伝統工芸近畿展、日本伝統工芸近畿賞ほか5回受賞、日本伝統工芸展、第50回展記念賞ほか4回受賞、伝統工芸木竹展、文化庁長官賞ほか4回受賞、その他受賞多数。滋賀県指定無形文化財技術保持者。紫綬褒章受章。2023年木工芸の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。2013年より京都美術工芸大学特任教授をつとめる。
京都市に生まれた宮本貞治氏。父は家具職人で幼少期から木片が遊び道具だった。
中高生時代は機械工作やデザインも楽しみ、将来は木工職人になりたいと
美大受験用のアトリエに通っているとき、アトリエ主宰者の紹介で
後に師となる木工芸作家の黒田乾𠮷を紹介された。
初めて親方(注・黒田乾𠮷)に会ったとき拭き漆を見せてもらって、びっくりした。漆は赤とか黒の塗りの漆器しか知らなくて古臭いイメージがあったけれど、こういう漆もあるのか、すごい、というのが第一印象やった。
親方には「木工をやりたいなら大学では彫刻に行って形の勉強をしてこい」と言われたけど、どういうわけか現役から二浪まで3回蹴られてしもた。親方に「また受験してたら遅くなるから、うちに来るか?十年辛抱するんやったら、とってやる」言われて、「好きなことができるなら、ええな」と。それ以外のこと、そのときは考えてへん。親方もお父さんの黒田辰秋先生が引っ越したばかりで部屋が空いたのも、自身の弟子をとるのによかったんやろね。
弟子は掃除洗濯からというイメージがあるけど、そういうことは親方の奥さんがしてくれて、最初から仕事の手伝いや。弟子入り当初は「一人前になるにはお盆を百枚彫れ」と言われて、明けても暮れてもお盆を彫ってた。その作業で道具の扱いや木とはどういうものかが分かったかな、仕事が終ると夜は酒盛り。定休日も休肝日もなし、給料もなし。食費や生活費はかからないけど、何も買えないので三十歳まで親の脛かじってしもた。うちの親も職人で、理解があったからできたことやね。
拭き漆とは、漆を使って木工品の仕上げる、日本に古くからある技法の一つ。ウルシの木から採取した樹液のゴミなどを取り除いただけの、精製していない「生漆」を木製品の表面に塗布して拭き上げることを何度も繰り返す。木地が漆を吸い込むことにより表面は茶色っぽくなるとともに木目がより明瞭となる。また、丁寧に拭き上げることで表面に美しい艶が出る。漆の塗膜ができることで耐久性は高まる。
漆を塗って拭き上げる回数は、つくるものや作者によって異なり、宮本貞治氏は下地から仕上げまでで合計20~25回におよぶ。1回ごとに乾燥させるので、宮本氏の場合は拭き漆の工程だけで1か月以上かかる。
京都の職人の世界でも少なくなっていた、住み込み弟子になった宮本貞治氏。
黒田家一色の生活だったが、黒田家に集まる人たちの木工芸談義や
様々な職種の来客との縁が大きな財産となった。
弟子時代は「表面を真っ直ぐに削ったら真っ平らに見えへん」「つるっと削るだけなら機械でもできるけれど、その上の魅力は人の手でしかつくれない」とか、毎晩のように聞かされた。木目があるから機械で真っ直ぐに削ったものは目の錯覚で平らに見えへんのやね。真ん中を少しだけ窪ませると、それが平らに見える。自分が理想とする形になるよう、いかに手をかけて削り込んでいくか――。親方も辰秋先生から教わったんやろね。もし普通に大学に行ってそういうことを習わないでいたら、おそらく今とは違うもんつくってると思う。
親方の工房は電気を使う工具類が一切なかった。世の中にはもう普通にあったけど、親方は使わない。手でやるしかないから、何でも手でやる。ひたすら手で考えて彫った。時間はかかったけど、親方は「早うせい」とか言わんかった。逆に「手間を惜しむな」いうことをよく言われた。
手でできる技術があれば、機械が使えない状況でも困らへん。たとえば幅40㎝幅以下までの木を削る機械を持っていても、幅41cmのときは手でやればいいだけや。「うちの機械は40㎝までだから、できん」言うのはプロでない。手でやる理屈がわかっている人は機械を使いこなせるけれど、手でできん人が機械を使うと機械に使われてしまう。
弟子になるときの約束だった十年の期間が終わると、
滋賀県志賀町(現・大津市)に親が所持していた小さな家を工房とした。
公募展などで独立早々に高い評価を得たが、本人は新しい悩みを抱えていた。
自分では変えているつもりなんやけれど、黒田のにおいが取れないんやね。十年弟子やっとったら仕方ない。「守破離」いうけど、自分らしいものを見つけるいうのは難しい。
自分らしい紋様として流紋を思いついたのは、琵琶湖のほうに越してきて十年近く経ったときやね。知り合いに「スキーやるなら水上スキーもどうや」と誘われて水上スキーを初めてしたときに、ボートの背面にできる波の形がきれいやなぁと見てたら、これ木でできるんちゃうかと思いついた。それでやってみたけど、最初の頃は深く彫り過ぎたり、浅過ぎたり、なかなか自分のイメージ通りにならんかった。
流紋は稜線を施したところに拭き漆をすることで光源の位置や角度によって様々な表情を見せる。稜線があるのに気づかないかもしれん。木工品の彫りは深く彫ったものが多くて、ぼくがやってるような浅いのは今までなかったと思う。自分で鉋をつくったり刃の微妙な調整ができんと、こういう風にはできへん。滋賀県に工房を構えていなかったら、こういう意匠は生まれんかったかな。
宮本貞治「タモ拭漆波紋楕円卓」
湖上で思いついた流紋は
さらに水紋、紋などを生み出し、
宮本貞治氏の作品を特徴づける
紋様となった。
弟子入り以来、寄せては返す波のように
繰り返してきた、
手を動かす経験の蓄積は、
日本の伝統的木工の世界に
新しい美の可能性を拓いたのである。
(後編へ続く)