
江戸時代後期の江戸では主に屋台で提供されていた天ぷら。
やはり屋台の食べ物だった鮨が進化し、日本を代表する料理になったように、
天ぷらを発展させることに挑戦した料理人、近藤文夫氏。
素材を広げるとともに加熱の技術を独自に研究し、現代の天ぷらの礎を築いた。
名声を得ても美味の追求を通して人々の喜びを願う謙虚な姿勢は
料理人の鑑として多くの後進に影響を与え続けている。
「てんぷら近藤」を開店して三十年余を経て店主は七十代後半を迎えたが、
仕事の内容は三十年前と大きく変わっていない。ただ、毎朝仕入れに出向く先が
築地市場から足立市場に変わった。足立市場では主に季節の天ぷらや
小鉢料理に用いる食材を中心に仕入れ、歴史ある地元の市場を応援している。
プロの料理人がお客さんに出すものを自分で仕入れに行くのは当然のこと。市場に入ってくるものは毎日違いますからね。前は店に近い築地市場に通っていましたが、豊洲に移ってからは足立区の自宅から行きやすい足立市場に通うようになりました。
足立市場は築地に比べたらずっと規模が小さいです。僕が通い始めた頃は品揃えもあまり良くなかった。良いものを買ってくれる人がいなかったのでしょう。だから僕が品質の良いものを買って変えたいと思いました。
僕は偉そうにはしないけれど、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきり言います。「こんなの仕入れてはだめだよ」と言うときもある。そして翌日ちゃんとできているか見に行くんです。次の日ちゃんとしていたら「今日はいいね」と言いますし、ちゃんとしていなくても、それは本人の考えでしょう。
その日の一番良いものは僕が全部買うのではなく、必ず一つ残していきます。そうすると、「自分も使ってみよう」と買う人が出てくる。その人が店で使ってお客さんが喜べば、その店にもお客さんにも良い。生産者にも良い。自分だけが儲かるのではなく他の人にも良いことをすると物事の全体が良い方向に回っていくんです。
天ぷらの発展は、南蛮人の渡来によって西洋の揚げ物料理が伝わったこと、江戸時代に胡麻油や菜種油の生産量が増大したことなどを背景とする。語源はポルトガル語で調理することを意味する「テンペロ」ともいわれるが、定かではない。徳川家康は天ぷらを食べすぎて体調不良になったという通説があるが、家康が食べたものは唐揚げに近い料理だったという。現代の天ぷらに近い形になったのは江戸後期と見られる。
十九世紀後半の江戸では、天ぷらは蕎麦、鮨などとともにファストフードとして親しまれていた。火災が多かった江戸では町民の住宅での調理に制限があり、天ぷらは民家で揚げられなかったという事情もある。「床店」(屋台風の店舗)では串にさした魚介の天ぷらが販売されていたが、その魚介とは江戸湾で獲れる車海老、穴子、鱚、メゴチなどであった。
幕末以降は天ぷらを座って食べられる店が増えた。その一方、屋台の天ぷら屋は減っていき、関東大震災後、東京から消えてしまった。
影響力の大きい料理人に与えられるミシュランの称号メンターシェフに選ばれたほど
料理界での知名度は高いが、近藤文夫氏は誰に対しても腰が低く、謙虚である。
店のスタッフには自分を「大将」や「親方」ではなく「近藤さん」と呼んでもらう。
肩書が好きじゃないんです。名刺にも「社長」とか入れていません。僕はただの人間。どんな人も同じ一人の人間として認めているから、威張りもしない。お客さんを怒鳴るようなことはしません。そんな店では楽しく食事ができないでしょう。店の若い子を大きな声で叱ることもない。間違っていることをしていたら先輩として間違っていると教えますが、頭ごなしに押し付けるようなことはしません。そんなことをしても人は伸びません。今のスタッフは長く働いてくれている子たちばかりなので、僕から何か言うことはほとんどないです。
新型コロナのときはうちも大変でした。でも、店を休むことなく、給料の支払いも欠かさなかった。商売はどんなに大変なときでもやり続けることが大事。「あそこは今やっているかどうか…」という店は潰れていきます。お客さんに見えるよう、いつでもきちっとしていないと。そこは家をつくる仕事と同じだと思います。コツコツやって土台をしっかりつくらないと。手を抜いたら家が建ちませんよ。ものをつくるとはそういうものです。だから毎日必死です。
ホテルで働いていた時代、常連客だった作家、池波正太郎氏が食事をしながらふと
「近ちゃん、未熟であることが大切なのだ。天狗になったらおしまいだよ」と
カウンターの向こうから語りかけてきた。その言葉は心に深く刻まれている。
自分は100点満点の80点の人間でいい。あとの20点は自分以外のこと、例えば若い人のために何かやるべきではないか、ということを考えています。若い人だとちょっと有名になると天狗になってしまうから、そうならないようにするのも僕の仕事ですね。
だいたい「自分は100点」と言う人は嘘なんです。本人がそう思っているだけで、本当はそうじゃない。現在地で止まってしまわないように、絶えず挑戦していくことが必要です。僕はいつも何かヒントはないか、良い素材はないかと探しています。
この前京都でリッツ・カールトンに泊まって天ぷらを食べたときに、牛蒡がとても良かったんです。修学院離宮の景観保存のために土地を買い取った人がやっている畑のものと聞き、行ってみたらすばらしい土の畑でした。その人の考えを聞き大変感動して、次の冬に契約させていただけることになりました。お客さんのために良いものを出したいと思っていると、すばらしい生産者さんとの出会いがあるんです。
自分があと何年続けられるかは分かりません。でも、まだ発見できることがあるなら、それも全部次の世代に渡していけるようにしていきたい。なかなか「じゃあ明日渡します」という風にはできないです。僕はまだまだ未熟ですから。
今では「てんぷら近藤」の名は
世界的に知られるが、
外国からの予約は定員の
半分までと決めている。
日本の自然や文化の豊かさを
受け継ぐために、
日本料理の最高峰である、
天ぷらを日本の人たちに
心から好きになってもらいたいのである。