
縄文時代から日本の暮らしを支えてきた漆。
細かな金粉で文様を描く「蒔絵」の技法は、奈良時代に始まり、
平安時代以降、貴人たちは華やかに装飾された漆の調度類の美を競った。
歴史に研かれた蒔絵の技術を、明治から昭和に伝えた名匠・松田権六に師事し、
2008年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された室瀬和美氏は
制作、文化財保存に加え、伝統工芸の魅力を国内外に発信することに力を注ぐ。
室瀬和美(むろせかずみ)
1950年東京都生まれ。父は漆芸作家の室瀬春二。1974年東京藝術大学大学院研究科漆芸専攻修了。国内外の展覧会に作品を発表するとともに漆芸文化財保存に携わり、金比羅宮天井画復元、琉球古楽器復元等において失われた技法の復活につとめ、正倉院宝物の分析でも功績を残す。2008年重要無形文化財保持者(蒔絵)認定、紫綬褒章受章。著書に『漆の文化』(角川選書)、『室瀬和美作品集』(新潮社図書編集室)。
縄文時代より器物の保護や接着に用いられてきたウルシノキの樹液、漆。
液状の漆がいったん固まると、長い年月に、腐ることも、溶けることもない。
その力が日本の暮らしと文化をどれだけ豊かにしてきたことか。
漆芸家の室瀬和美氏は、日々の食卓でこそ漆の実力がわかると言う。
今の世の中では十人中九人、もしくは十人が、「漆の器は美しいけれど、傷つきやすく、扱いにくい」と誤解しています。それがすごく残念。本当の漆はとても強くて、扱いやすい。私は35年間、毎日同じお椀でご飯を食べていますが、傷などほとんどありません。
漆の椀は、木製なので熱伝導率が低いうえ、漆が適度に水分を吸うので、最後の一粒までご飯を温かくおいしく食べられます。だから、講演会などでは「漆の椀でご飯を」と言い続けています。そうしたら数年前、ある講演会で、高い山での使用について質問を受けました。会の終了後その方とお話をしたら、「実は父がエベレストに登るので」とおっしゃる。三浦雄一郎さんの息子さん、三浦雄大さんでした。
「高齢なので、登山中もできるだけ温かい食事を」というお話を聞き、登山隊全員分のお椀をつくりました。無事帰国され、見せていただいた椀は、砂による細かい傷だけで、ヒビ割れなどはまったくない。三浦さんのおかげで、漆は世界一厳しい環境にも耐えられることが証明されました。
蒔絵螺鈿飾箱「春映」
縦28.5×横15.0×高11.0cm。
2016年 第63回日本伝統工芸展入選作品
つややかな漆の地に、細かな金粉で文様を描く「蒔絵」の技法は、
奈良時代に中国から伝えられたとも、日本で生まれたともいわれる。
千年以上の時間をかけて洗練された技術を、その手に受け継ぐ室瀬和美氏。
作品制作ではいくつもの技法を併用し、装飾工程だけで数か月の時間を要する。
今回制作した「春映」は、水面に映る桜がテーマです。水面の光の反射で、映りこんだ桜が見えたり、見えなかったりする様子を、抽象的なデザインに落とし込みました。
細い格子の線は、0.4mmの幅に切ったさまざまな長さの貝を二本並べています。長いもの一本を貼るだけでは光が単調になるので、不規則な長さに短く切って、表情を出しています。
桜は「研出蒔絵」という技法で、金粉を蒔いた上に漆を塗り込み、固まった後、木炭で文様を研ぎ出しています。この技法なら、金粉は千年後でも取れません。そこが研出蒔絵のすごいところ。私たちが千年前の作品を見ることができるように、千年後の人にも見てもらうことができます。
漆の箱は、大切なものを次世代に残したいという、日本の価値観が表れたもの。今だけよければというのではなく、後世に伝えたいからこそ、千年以上もつヒノキ材に漆を塗った箱におさめ、いかに大切かを示すために蒔絵を施す。空海の時代から、新しいものを加えながら伝えられてきた箱の文化を、私も伝えたいと思っています。
中学二年の夏、漆芸家の父、室瀬春二の作品制作をはじめて手伝った。
そのとき感じた漆をみがく楽しさ、展覧会での誇らしさが、進む道を決定づけた。
その道は、父の歩んだ道の延長線上にあるが、より広く、より多くとつながっている。
父親の姿で一番思い出すのは、「平常心」。どんな場面でも本当に乱れない人でした。何があっても動じない。焦らない。怒られたこともありません。また、「作家は財産をもったら、だめになる」と言って、お金の請求をしなかった。そんな仙人みたいな人だから、周りにはいつも人が集まってきていました。
高校生のとき「漆をやりたい」と相談したところ、「家で技術は教えられるが、大学で歴史や理論など広く学んだほうがいい」と言われ、東京芸大に進学します。父親は沈金技法が主体の漆芸家で、沈金の技術は逆立ちしても届かない。それを追いかけるのも良いが、違うものを探そうという気持ちもありました。
素材に目を向けるようになったのは、学生時代に出会った松田権六先生の影響です。当時すでに七十歳代で、漆の神様のような人でしたが、歴史から学ぶ方法を叩き込んでくれました。そして漆そのものの素材と蒔絵表現の魅力にひかれていきました。父親もそうした学びを期待していたのでしょう。
千年の時間をも超える強さを秘めた、日本の漆。その強さは地球最高所の環境にも耐えることができた。しかし、これだけ多くの人々が漆を誤解している時代に、父や恩師から伝えられたものを次世代に残すことができるのか。室瀬和美氏は歴史を振り返りつつ、次の千年へのヒントを探している。
(後編 「用の美の極致」編へつづく)