徳川城下町の歴史を継いで。

徳川城下町の歴史を継いで。
浜松城下の侍屋敷の町から生まれた地・常盤町周辺。
浜松城下の侍屋敷の町から生まれた
地・常盤町周辺。
明治15年に御舟藏町や百軒町、分器町、早馬町の一部などが
合併して誕生した常盤町周辺は、徳川の時代には数十軒の武家屋敷と
100軒の下級武士の長屋がある武家屋敷の町でした。
中でも分器町は本多忠勝、鳥居元忠、大久保忠佐など
徳川十六神将に名を連ねる武将がいた町であり、
その他にも大名や旗本の多くが住んでいた浜松城下有数の場所として、
いまもその歴史を刻み込んでいます。
出展/浜松風土記「浜松市中央図書館」参考文献
戦災からの復興により、中心市街地として発展。
戦災からの復興により、
中心市街地として発展。
浜松市街地は戦災で甚大な被害を受けますが、
戦後迅速な市街地整備が進められると目覚ましい復興を果たします。
常盤町周辺でも昭和24年から区画整理が開始され、
その後も数々の開発が進められたことにより、
現在へとつながる街の基礎が形成されていきました。
出展/「浜松市中央図書館」参考文献
徳川家とゆかりの深い歴史を
いまなお映す。
本多忠勝屋敷推定地
側近として徳川家康を支えた徳川四天王の一人であり、戦国最強の武将とも言われる本多忠勝の屋敷があったとされる場所。地誌の曳駒拾遺には「本多平八郎忠勝は分器稲荷社の西の家也と云えり」と記されています。
徳川秀忠誕生の井戸
2代目将軍である徳川秀忠の出生の地で、側室である西郷局から生まれたときに産湯として、この辺りの井戸水が使われたと伝承されています。出生地については浜松城二の丸北側という説もあります。
※徒歩分数については80mを1分として算出、端数を切り上げたものです。
※掲載の環境写真は平成29年9月・令和元年12月に撮影したものです。
※「緑景街区」は広告表現としての造語です。特定の街区を示すものではありません。