お近くのダイワハウス

PREMIST ダイワハウスの分譲マンション

美に魂が震えるたび、人はより幸福になれる。
  • 美に魂が震えるたび、人はより幸福になれる。
  • VOL.32 2021 EARLY WINTER ISSUE PART2 画家 松井守男「日仏の架け橋として」

    二十世紀初頭、美術界において新しい潮流の発信地はフランス・パリであった。
    第二次世界大戦後、アメリカ・ニューヨークの発信力が強くなったが、
    芸術の国としてのフランスの立ち位置は今も世界に揺るぎない。
    在仏半世紀以上になる画家、松井守男氏は、世界での存在感が弱まる故国を憂い、
    フランスの発想を取り入れて社会を再生することを提案している。

    • 長崎県久賀島のアトリエで。

      長崎県久賀島のアトリエで。

    1990年代後半以降、松井守男氏は活動の拠点をコルシカ島としている。
    コルシカ島の美しい自然と情の厚いコルシカ人を愛する氏は
    島に永住するつもりだが、2008年、日本にもアトリエを設けた。
    場所は、長崎県五島列島の久賀島である。

    2008年はじめ、日仏交流150周年記念にあわせ、銀座のシャネルで僕の個展がありました。そのとき旧知のコルシカの元大司教のすすめで長崎の高見大司教を訪問すると、11月に長崎の殉教者の列福式が行われるとのことで、「列福式に添える展覧会を」と依頼されました。「アフリカで黒いキリストが描かれているように、日本人のキリストを描いていただけないでしょうか」。そう言われて、キリシタンが隠れ住んでいた五島列島に案内され、久賀島と出会ったわけです。

    久賀島にはコンビニもカフェもない。でも、僕のアトリエの場所としては日本で一番良かった。それは、久賀島にはコルシカ島にはない光があるから。海の色もまったく違う。コルシカは透明感のある青ですが、久賀島は海と山が近くて、海も緑色。それも僕の新しい色となりました。

    久賀島は人も飾りがなく、素朴です。日本で子どもに絵を教える活動をすることがあるのですが、島の子どもたちのほうが発想は自由です。コンクリートブロックの割れ目に生えるタンポポを描く子がいたり、港にいるのに後ろの山を描いていたり。都会よりもよほど教育的な環境だと思うけれど、中学・高校で島を出てしまうと、子どもたちは戻ってこない。コルシカ島の子どもたちは大学を出たら戻ってくる。そこは政治の差だと思いますね。

    • 久賀島の田ノ浦港の近くにある廃校の校舎をそのままアトリエに借りている。校舎内には黒板や図工用の道具などが現役時代のまま残る。
      久賀島の田ノ浦港の近くにある廃校の校舎をそのままアトリエに借りている。校舎内には黒板や図工用の道具などが現役時代のまま残る。
    • 2019年の台風被害で校舎の傷みが深刻になる以前は、展覧会などのイベントも行っていた。著名人がおしのびで訪問したこともある。
      2019年の台風被害で校舎の傷みが深刻になる以前は、展覧会などのイベントも行っていた。著名人がおしのびで訪問したこともある。
    • 校舎の広さは、大作の制作にうってつけ。木造校舎の味わいや、自然を感じながら制作できることも気に入っている。
      校舎の広さは、大作の制作にうってつけ。木造校舎の味わいや、自然を感じながら制作できることも気に入っている。
    • 旧五輪教会堂。1881(明治14)年に島で最初に建てられた木造建築で、1931(昭和6)年に現在地に移築。貴重な和風の木造教会として、国の重要文化財に指定されている。

      旧五輪教会堂。1881(明治14)年に島で最初に建てられた木造建築で、
      1931(昭和6)年に現在地に移築。貴重な和風の木造教会として、
      国の重要文化財に指定されている。

    • 旧五輪教会堂の内部は本格的な教会建築様式。建築を任された船大工は仏教徒だったが、キリシタンの望みを叶えようと、大浦天主堂などを見て歩き研究を重ねたという。

      旧五輪教会堂の内部は本格的な教会建築様式。建築を任された船大工は
      仏教徒だったが、
      キリシタンの望みを叶えようと、
      大浦天主堂などを見て歩き研究を重ねたという。

    • 牢屋の窄殉教地。1868(明治元)年、久賀島の潜伏キリシタン約200名は6坪の牢屋に詰め込まれたが、8か月もの間、棄教の要求に抵抗した。牢の跡地に弾圧で亡くなった42名の碑が並ぶ。

      牢屋(ろうや)(さこ)殉教地。1868(明治元)年、久賀島の潜伏キリシタン約200名は
      6坪の牢屋に詰め込まれたが、
      8か月もの間、棄教の要求に抵抗した。
      牢の跡地に弾圧で亡くなった42名の碑が並ぶ。

    • 久賀島のランドマーク、浜脇教会。もとは木造だったが、潮風に耐えられるよう、1931(昭和6)年現存の鉄筋コンクリート造に改められた。それ以前の建物は移築され、現在は旧五輪教会堂として残る。

      久賀島のランドマーク、浜脇教会。もとは木造だったが、潮風に耐えられるよう、 1931(昭和6)年
      現存の鉄筋コンクリート造に改められた。
      それ以前の建物は移築され、現在は旧五輪教会堂として残る。

    COLUMN

    久賀島と潜伏キリシタン

     五島列島の南側に位置する久賀島は、もとは仏教徒のみの島だったと考えられている。十八世紀、五島藩の開拓移民政策に従って、外海(そとめ)地域の潜伏キリシタンが移り住み、島に新しい集落を形成した。移住地は農業に適さなかったので、旧来の住民の農業や漁業を手伝う関係が生まれ、他の島よりも交流は盛んだった。
     幕末の開国後、居留民のため、長崎に大浦天主堂が建てられると、潜伏キリシタンが信仰の告白に訪れ、天草や五島でひそかに信仰が守られていたことが判明。日本人に対する禁教は続いていたので、キリシタンは厳しい迫害を受けた。久賀島でも「牢屋(ろうや)(さこ)」と呼ばれる弾圧があった。
     しかし、1873(明治6)年、欧米の圧力により禁教が解かれ、その後は各地に日本人のための教会が建てられた。島内の教会堂跡やの潜伏キリシタンの墓地は、2018(平成30)年7月「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」としてユネスコの世界遺産に登録されている。

    日仏交流に携わり、日本の人々と交流する機会が増えると
    日仏の違いに驚くことも増えた。アートビジネスや美術教育などでは
    日本のやり方に疑問を感じることが少なくない。

    フランスでは一般の家庭にも絵が飾られています。ヨーロッパの長い歴史から、絵がいざというときに資産になることも常識として知っています。高齢の夫婦は絵を買うときに孫を連れてきて、絵は心を豊かにしてくれることや、価値を見分けることの大切さなどを話して聞かせます。だから子どもも関心が高い。また、お金に余裕のない若い夫婦などは将来有望な学生の作品を買い、長い目で応援してくれます。

    僕も学生時代からお客さんがついていました。普通は画廊や画商を通すけれど、僕は直接コミュニケーションを取るのも楽しかったし、権威的な画廊が嫌いだったから。ピカソも晩年までは画廊を通さず、「おまえの作品の値段はおまえが決めろ」と言っていました。今も僕はそうやっています。

    日本では僕は何度も「あなたの名前は知らない。本当に有名なのか」と言われました。そういう人は自分がどう感じたかよりも、有名かどうかが気になるのです。フランスの人は自分が良いと思った作品を買うのですが。

    ピカソは「人間は、生まれたときに、みな同じチャンスをもらうのだ」と言っていました。問題は、何を選択するか、ということ。アートに限らず、自分で判断し、選択することで、人生は変わります。日本にはそのことに気づいていない人が多いのではないでしょうか。

    • 浴衣で制作する理由は、動きやすさと腰痛対策。大作をつくるには腰は大切である。
      浴衣で制作する理由は、動きやすさと腰痛対策。大作をつくるには腰は大切である。
    • 制作中の「春夏秋冬」(一部)。自身には抽象画と具象画の境界がなく、本作には島の花や樹木も描かれている。
      制作中の「春夏秋冬」(一部)。自身には抽象画と具象画の境界がなく、本作には島の花や樹木も描かれている。
    • 芸術を愛するフランスの人々に導かれ、芸術とは愛だと悟った。作品にも「愛」の字を潜ませる。
      芸術を愛するフランスの人々に導かれ、芸術とは愛だと悟った。作品にも「愛」の字を潜ませる。
    • 長崎県久賀島の折紙展望台で。「自然に勝るアートはない」と、見事な景観に心を昂らせる。

      長崎県久賀島の折紙展望台で。
      「自然に勝るアートはない」と、見事な景観に心を昂らせる。

    • 久賀島の折紙展望台からの久賀湾。島の中央部深くに入りこむ湾は、湖のように穏やかである。

      久賀島の折紙展望台からの久賀湾。
      島の中央部深くに入りこむ湾は、湖のように穏やかである。

    • スケッチでは色鉛筆を用いることが多い。自然をスケッチすることがインスピレーションの源となる。

      スケッチでは色鉛筆を用いることが多い。
      自然をスケッチすることがインスピレーションの源となる。

    • 刻々と変化する夕陽を描いている間に、現実と画は一体となり、それに満足したかのように、太陽は沈んだ。

      刻々と変化する夕陽を描いている間に、
      現実と画は一体となり、それに満足したかのように、太陽は沈んだ。

    2020年日本滞在中にコロナ禍が始まり、2021年まで約二年間を
    日本で暮らしてきた。異例の長期滞在で現代の日本をより深く知った今、
    未来の日本のために、アートを活かしてほしいと感じている。

    日本は景色がすばらしい国だと改めて思いました。たとえば、高速道路で東京と京都の間を移動していると、いつ行っても景色が違う。季節でも違うし、時間帯でも違う。湿気があるから山に霧がかかるでしょ。それがすごく美しい。飽きることがありません。

    自然はものすごく変化に富んでいる一方で、走っている車の色は黒と白ばかり。成人式に招かれて行けば、女性はみんな同じような袴。他人と同じものを選ぶのが安心、という考え方が日本では当たり前なのが残念です。

    アートは既成概念を取り払い、新しい価値をつくり出すもの。人と同じことをしていたら誰も見てくれません。ビジネスでも教科書がない時代ですから、アートの思考法はビジネスにも活かすことができます。日本はもともとすばらしい文化や美意識があり、浮世絵などはピカソにも影響を与えていました。その感性を取り戻してほしい。人生は一度きりだから、他人を気にしないで、自分のために感動と幸福を求めていいと思います。

    • 松井守男氏にとって育ての親であるフランスは、自分で判断し、責任を持つことを教えてくれた。おかげで幸福な今があると感謝しつつ、身体には日本の血が流れている。日本の人々も幸福であれ、と祈らずにはいられない。
    松井守男氏にとって育ての親であるフランスは、自分で判断し、責任を持つことを教えてくれた。おかげで幸福な今があると感謝しつつ、身体には日本の血が流れている。日本の人々も幸福であれ、と祈らずにはいられない。

    松井守男氏にとって
    育ての親であるフランスは、
    自分で判断し、
    責任を持つことを教えてくれた。
    おかげで幸福な
    今があると感謝しつつ、
    身体には日本の血が流れている。
    日本の人々も幸福であれ、
    と祈らずにはいられない。

    VOL.32 2021 EARLY WINTER ISSUE PART1 画家 松井守男<PART1「自らの光を求めて」編>

    半世紀以上をフランスで過ごし、レジオンドヌール勲章の受章するなど、同国で輝かしい実績を重ねてきた画家、松井守男氏。高度経済成長期の日本を飛び出し、失意の中でピカソに出会った青春の日々と、「光の画家」と呼ばれるまでの道のりを語ります。

    PLATINUM SALON MOVIE VOL.32 MATSUI MORIO
    PLATINUM SALON MATSUI MORIO PHOTO GALLERY 2
    TOP PAGE

    プレミストクラブ ご入会はこちら

    このページの先頭へ

    大和ハウス工業株式会社

    ページ上部へ

    Copyright DAIWA HOUSE INDUSTRY CO., LTD. All rights reserved.