
良質な竹が採れ、竹工芸がさかんな栃木県大田原市。
この町に生まれた藤沼昇氏にとって、竹は身近過ぎる存在でしかなかった。
竹工芸を一生の仕事と決めるまでに三十年の歳月を要したが、
その後は自身のすべてを竹工芸に注ぎ込み、人間国宝の認定を受けるに至る。
彼にとって「竹取物語」は、はるか昔の伝説ではなく、人生の物語だ。
藤沼昇氏の父は大工で、叔父は建具師。自身は小学校1年生のときから鋸を使い、
図工は大の得意だった。しかし、将来の道として工芸を考えたことはなく、
工業高校卒業後は地元の精密機器メーカーで働きながら、カメラマンを目指した。
栃木県の文化賞を写真で受賞するほどだったが、二十七歳で突然目標が変わった。
27歳のとき、全国のユースホステルを旅していた仲間で、フランスのシャモニーにスキーに行ったんです。海外はそれがはじめて。アルプスの山々の壮大な景色に感動して写真に写そうとすると、カメラではどうしても目で見ているそのままを写せない。カメラより人間の感覚はすごいんだ。そう思った後、今度はパリのルーヴルや凱旋門で、石の文化に触れた。ナポレオンの時代のものを大切にしていて、自国の文化を誇るフランス人をすごいと思いました。けれど、日本の文化は全然負けていない。日光東照宮だって、凱旋門よりずっと古い。ただ、自分も含めて、日本の人は日本文化について何か語れるほど知らない。日本は文化を置き去りにして経済を発展させたでしょ。だから、僕は日本文化を学んで、それを伝えられる人間になろうと決めた。前から三十歳までに一生の仕事を決めるつもりでいたんです。帰国後はカメラを置いて、お茶、書、版画、能面づくりまで、仕事帰りも休日もいろんな講座を受けて日本文化を勉強しました。そうしているうちに、竹に出会ってしまうわけです。
イネ科の植物、竹と笹
竹はイネ科の多年生植物で、一般の樹木とは違うところが多い。樹木で幹に当たる部分は、地下茎に節にある芽が地上に伸びたもので、竹稈と呼ばれる。新しい竹は、真竹では約60~80日で高さ10~15mになる。その後、樹木の幹のように、竹稈が太ることはない。そのかわり地下茎が伸びていき、数十年ごとに地下が混雑し過ぎた状態になると地下茎が窒息し、地上では花が咲き、実を落とす。やがて、地下茎が腐って土に戻ると、改めて実から繁殖する。
竹は成長すると節についている皮を失うが、ずっと皮があるものを一般に笹と呼ぶ。「根曲がり竹」の植物学上の名は「チシマザサ」である。
中国では竹稈の内部が空洞であることから、腹に包み隠すことのない君子の象徴として漢詩に詠まれる。
日本文化を学び始めて二年後、二十九歳になった藤沼昇氏は竹工芸の人間国宝、生野祥雲斎の遺作集に出会う。
竹と人間の力だけでつくられる芸術の存在に衝撃を受けるとともに
竹工芸に可能性を感じたことから、三十歳で退職し、竹工芸家の弟子となった。
手先の器用さには自信があったけれど、入門一年ほどで「教えることはもうない」と言われたときはショックでした。いくらなんでも早すぎると思って。その後は例の作品集を見ながら、自分で研究しました。写真をやっていたから、写真で立体感を想像できたのは良かった。写真も無駄にはなっていないんだ。
難しい技法ができるようになると「あいつは生意気だ」と言われたり、公募展で自信作が落選になることもありました。でも、出る杭は打たれる。打てないくらい大きな杭になればいい。そう思うことにしました。何年もそういう時期が続いたけれど、作品を一生懸命つくり続けるしかなかった。
1992年のバルセロナオリンピックで、十四歳の選手が「今まで生きてきた中で一番幸せです」と言ったでしょ。あのとき夜通し仕事をしていて「十四歳であんなことが言えるなら、俺がこれだけ気合を入れてやっていて、何かいいことが起きないわけがない」と思ったことをよく覚えています。不思議なもので、そのときつくっていた「気」という作品で、日本伝統工芸展で東京都知事賞をいただきました。
二十一世紀に入りアメリカで竹のアーティストとしての評価を確立した藤沼昇氏は、
2012(平成二十四)年、六十七歳で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
人間国宝は次の世代を「養成」しなければならない立場とされ、
次の世代に竹工芸を伝えることが新たな使命となった。
同じ年に認定された坂東玉三郎さんや、漆芸の人間国宝の室瀬和美さんにお会いすると、よく「養成」の話題になります。理論を伝えることはできても、空論になっては意味がない。技術を伝承しても、形が伝わるだけなら芸術ではない。何をどう次の世代にバトンタッチするべきなのか、と。
僕は、まずは子どもたちに見たり、触れてもらうべきだろうと思っています。今の子どもたちは日本間のない家に住んでいて、書画や工芸品を飾る生活を知らないし、竹で遊ぶ機会もないですよね。それで、大田原市名誉市民としていただくお金で、「藤沼昇 世界に羽ばたけ子ども未来夢基金」を設立しました。そこではMOA美術館おおたわら児童作品展に出品して、MOA美術館を見学する支援をしています。地方の子には美術館に行ったり、日本美術に触れたりする機会があまりないから、すごく喜んでもらえます。また、年に何回か各地で竹トンボや昔の玩具をつくる親子ワークショップをやっています。子どもたちと竹との出会いの場としてね。僕も子どものときにものをつくって遊んでいたから、竹工芸と出会えました。人は何がきっかけで何と出会うか分からないけれど、その出会いが未来をつくるんだ。
日本文化を伝えられる人間を目指し、
竹工芸に出会った青年は、
竹に夢中になっているうちに
「翁」と呼ばれる年代になった。
藤沼昇氏にとっての竹林の姫は、
これまでにつくり出した作品である。
その姫君たちは今、次の世代との
運命の出会いを待っている。
(了)