
奈良時代に中国より薬として日本にもたらされ、 鎌倉時代に京都で栽培が始まったとされる日本の茶。
茶の生産・製造の発展は、日本に茶道という総合芸術をもたらした。
茶葉の香り、味、色を記憶し、組み合わせる茶師の最高段位にあり
かつ宇治茶の生産者として伝統を背負う小林裕氏は、
研ぎ澄まされた五感で世界の人々に日本茶のくつろぎを提案する。
小林 裕(こばやしひろし)
1975年京都府生まれ。祥玉園製茶5代目当主。
2011年、全国茶審査競技大会において、最高位の十段を取得。祥玉園製茶株式会社代表取締役として、茶園の運営、茶葉の仕入れ等の業務を統括。菓子メーカーの緑茶商品の監修なども手掛けている。
京都府は古くからの茶の産地であり、府内で生産される茶は「宇治茶」と呼ばれる。
小林裕氏の先祖は十九世紀前半から木津川流れる京田辺で茶農家を営んできた。
大正時代から「祥玉園製茶場」を名乗り、昔も今も茶の品評会で名を馳せている。
外国のお茶になくて日本茶にあるものは何か分かります? 答えはうま味、アミノ酸です。外国は香りをドンと強く出します。それに対して日本のお茶は、香りはそこまで強くなく、うま味とのバランスを大事にします。とくに京都はうま味重視です。
お茶でうま味をどうやって出すかというと、とにかく手間をかける。具体的には、被覆と肥料です。被覆というのは京都では約四百年前からある、茶の木に覆いをかける栽培方法で、抹茶と玉露をつくる畑でやります。光合成する植物に覆いをかけるのは矛盾しているようですが、日光を抑制することで新芽がやわらかくなり、独特の香味がしっかりつきます。
肥料は、質の良い有機質の肥料をとにかくたくさん使います。うちの場合は1反に約1トン。よそではありえない量だと思います。肥料の中身は季節によって違い、春はイワシや昆布を混ぜた魚かすを発酵させ、吸収しやすくした発酵肥料を撒きます。そうすると土の酸性度が上がって木にはストレスがかかるのに、樹勢のいい茶の木はそこで栄養をぐっと根から吸い上げます。そのギリギリのところを攻めていくと、うま味が濃く、おいしいお茶になるんです。
高級宇治茶の茶畑は、一般的な茶畑よりも一年に収穫される茶葉の量は少ない。
量と品質を両立させるのではなく、品質を何よりも優先することによって
日本を代表する産地としての格が保たれてきた。
最初に茶摘みをした後で、二番茶、三番茶といって伸びてきた葉を摘むところもありますが、うちでは一番茶を摘んだら膝下ぐらいの高さに刈り込んでしまい、一年かけて大人の背丈まで成長させます。この間にも肥料をしっかり与え、茶摘みの前の追い込みに強い、元気な木に育てます。
春になったら彼岸の中日頃に覆いをかけ、旧暦の八十八夜を目安に茶摘み開始にベストな日を探っていきます。植物は月の引力に影響を受けているので、新月の日には茶摘みをしません。月の引力で樹液が下に行ってしまい、葉に栄養分が少ないからです。そこからだんだん上がっていくのを毎日毎日チェックします。我々は葉を「しがむ」といいますけれど、葉を生のまま齧ってみて、苦く感じるうちはまだ早い。生でもうま味が感じられるようになったら、一番高級な茶から茶摘みを始めます。
茶の栽培には正解がありません。毎年天候が違いますから、去年すごく上手くいっても、今年同じタイミングでやったら絶対失敗します。いつまでも一年生のような気持ちで取り組んでいます。
工場でつくった荒茶は、一般には茶市場で入札が行われ、製茶業者に購入される。
小林家の場合、製茶と販売も行っていて、自園の玉露や抹茶だけでなく、
入札で仕入れた他園の荒茶と組み合わせた茶も製造・販売している。
うちは大正時代にもう通販を始めています。新茶ができるとお得意さんにチラシを送って、注文をとっていました。保存技術が発達していなかった頃は、できたての新茶を飲むのはすごい楽しみだったようです。
緑茶のペットボトルが出てからは、家でもペットボトルのお茶を飲む人が増えていきました。今はもう、日本全体では急須で淹れる茶葉の売り上げをペットボトルのお茶のほうが上回るようになっています。急須で淹れたお茶を飲む人をどうやって増やしていくかは、業界全体の課題ですね。
一昔前の京都の大工や職人は、休憩時間に玉露を飲んでいました。玉露はアミノ酸やカフェインが多く、肉体を酷使するほどおいしく感じられる飲み物なんです。免疫力を高めるともいわれますし、今の時代に合っているんじゃないかと思います。
歴史の中で吟味され、
進化を続けた日本の緑茶。
生産者であり茶師でもある小林裕氏は、
すぐれた宇治茶は
多様な嗜好品のある現代でも
最も洗練された
美味の一つであることを疑わない。
(後編へ続く)