
仏教とともに香の文化が伝わった日本。平安貴族の薫香はステータスシンボルであり
美意識の表現でもあった。中世には香りを「聞く」ことを楽しむ芸道、香道も生まれた。
一方、西洋の香水は古代オリエントを源流に、ヨーロッパの宮廷と近代のブルジョアの文化に育まれた。
文化的な違いを背景に、日本では経済規模のわりに香水の市場は限られ、
「香水砂漠」とも呼ばれる中、自身でブランドを立ち上げた調香師、大沢さとり氏は、
日本らしい香水の開拓者として世界の愛好者にその名を知られている。
大沢さとり(おおさわさとり)
1958年東京都生まれ。少女時代から植物を愛し、12歳より草月流華道、裏千家茶道を学び、師範、茶名を取得。1988年より香水、1990年代に香道を学び、2000年サロンを開設。2003年「パルファン サトリ」としてコレクション発表を開始。2018年、世界の香水愛好家のバイブル「Perfumes the Guide」に日本の独立系ブランドで初掲載。2019年、日本の独立系調香師として初めて国際香水博物館(仏グラース)に香水が収蔵された。2020年「HOTEL THE MITSUI KYOTO」(京都市中京区)、「ザ・ペニンシュラ東京」(東京都中央区)のルームアメニティの調香師に。世界に誇る日本ブランド「JAXURY AWARD 」(文化庁協力)に連続選出。2023年12月、「令和5年度文化庁長官表彰」を受ける。
幼年時代から植物が大好きだったという大沢さとり氏。学校から家に帰る途中、
見つけた花や木を調べるためにポケット図鑑を持ち歩くような少女だったという。
母親は自宅で華道教室を開いていて、自身も学生時代に華道と茶道を学んだ。
当時はそれらが自分の職業に影響するという意識はあまりなかった。
趣味のガーデニングとハーブをきっかけに、1988年、ハーブとアロマテラピーのショップを開きました。香りについて学び始めると興味がどんどん広がり、香水への関心も高まりました。
私にとって初めての香水は、高校時代に父親から海外出張のお土産でもらったニナリッチの「カプリッチ」です。フローラルブーケがキュートな印象の香りで、学生時代からおでかけのときに楽しんでいました。その頃から香水は特別で素敵なものという印象がありましたが、ハーブを扱っているうちに調香にも興味が湧いてきました。調香とは香料の組み合わせを考え、香りの処方箋をつくる仕事です。その専門家である調香師は、建築でいえば設計士にあたります。
ステップアップとして、調香を学んでオリジナルの香水を手がけたいと考えていたところ、調香師の丸山賢次先生が日本で調香の指導を始められました。丸山先生は世界の四大香料メーカーのひとつ、スイスのフィルメニッヒ社で活躍された世界的な調香師です。それまで日本には一般の人が調香を学べる場はなかったので、丸山先生に師事できたのはとても幸運でした。
人間の感じるにおいの正体は、空気中を漂う揮発性のにおい物質である。現代では香料を混合して調整することによってより心地よい香りをつくりだすことが可能である。素材となる香料は、動植物から抽出・蒸留することによって得られる天然香料、化学的につくられる合成香料に大別される。
天然香料の歴史は紀元前3000年頃のメソポタミア文明に始まるといわれ、日本にも仏教とともに自然がつくり出す香木や香薬が大陸から伝わった。蒸留で植物の香料を抽出し、香る液体をつくる技術は10世紀のアラビアに始まる。十字軍の遠征で中世のヨーロッパにローズウォーターがもたらされ、ルネサンス期のイタリアでは香料の研究がさかんに行われた。イタリアの香料の技術は、カトリーヌ・ド・メディシスとアンリ2世の結婚によってフランスにもたらされ、香りの贅沢はブルボン王朝のファッションとなった。
19世紀以降、化学の発達によりにおい物質の分析・研究が進み、合成香料が発展。天然香料の分析や開発も進み、現在調香に使用可能な物質は6000種類以上ともいう。香料は化粧品や生活用品の他に食品、飼料、工業などにも用いられる。食品の香りづけを専門とする人をフレーバリスト、フレグランス専門の調香師をパフューマーと呼ぶ。
日本の調香師はほとんどが香料メーカー、化粧品メーカーなどの会社員である。
調香を学んだとはいえ、大沢さとり氏はメーカーに就職する気持ちはまったくなく、
調香師として自由に活動したいと考え、自身で香水のサロンを開いた。
日本にはまだ独立系調香師の成功例はなく、すべてが手探りのスタートだった。
香水の調香には最低でも200~300種類の香料が必要です。それを少量ずつ販売してくれる業者を探し、200社ほど電話をかけてやっと100g単位で販売してくれる会社を埼玉に見つけました。直接出向いて毎月20種類、30種類と買い足しているうちに、とうとう10gでも20gでも好きな量で買えるようになりました。その他、外国の業者から購入したり、つてを頼ったり、必死で香料を増やしました。
製品にする工場を探すのも、香水瓶の会社を探すのも、どれも同じように大変でした。瓶を入れる箱ははじめ他の箱を参考に手づくりしました。子どもの頃から工作が得意だったのが役に立ちましたね。思い描くようなものがないときは、自分でなんとかするしかなかったんです。
幸いなことに調香師という存在が珍しかったためか、香水のセミナーの講師やイベントなど、仕事のご依頼は様々にいただきました。人気アーティストの全国ツアー会場限定の香水は即日完売だったと聞いています。2009年にある通販雑誌で販売が始まり、安定した数を販売できるようになり、会社設立に至りました。
自身の香水ブランド、「パルファン サトリ」を始めるにあたって
大沢さとり氏は日本の美意識を香りで表現することを目指した。
アイディアの源泉は、調香を学んでいるときに稽古を始めた香道だった。
香水の香りはエタノールの揮発の力で広がっていくものなので、光でいえば直射日光のように直接的です。それに対して香道では、香木は器の熱い灰の上で間接的に温められることで、香気成分がマイルドに空中に放たれます。その香りがふんわりとドームのように自分を包んでくれるのが気持ち良く、この匂い立ちで肌そのものが香りのベールで包まれるような、障子越しの光のような香水をつくってみたいと思いました。障子越しの光はやわらかく、静かで秘めやか。それは日本の美意識の特徴だと思います。
もうひとつのこだわりは、日本の在来種の植物や日本の食べ物のにおいなど、日本ならではの香りを使うことでした。たとえば「ハナヒラク」のホオノキ、「ミズナラ」のミズナラはどちらも日本固有の植物です。「夜の梅」では墨汁の香りを使いました。
それまで日本らしさを表現した香水は存在しなかったので、国内外の人々が「パルファン サトリ」の香水をとても新鮮に感じてくださったようです。こんなに小さなアトリエの作品が、2018年、世界的に有名な香水ガイドで高評価をいただいたのは本当に嬉しい驚きでした。今になって振り返れば、子どもの頃から植物が好きなこと、日本の伝統文化に親しんできたことなど全部が「パルファン サトリ」につながっているのだと思います。
調香師としては
スロースターターだったが、
自分のやり方を貫き、
無我夢中で走り続けた大沢さとり氏。
日本の自然と伝統文化への愛をベースに
今、トップランナーとして
世界に新しい香りの喜びを届けている。
(後編へ続く)