
和食の代表的な料理、天ぷらは江戸時代後期より屋台で江戸の人々に親しまれていた。
近代には天ぷらの専門店が増える一方、総菜として天ぷらを売る店も増加。
第二次大戦後、高度経済成長とともに人々の食への関心が高まる中、
近藤文夫氏はホテルの和食店で美食家の舌を満足させるべく、天ぷら改革に着手。
独立して開いた「てんぷら近藤」ではさらに良い素材と新しい調理法の研究に努め、
日本の旬を薄衣でふっくらと揚げた品々は現代の天ぷらの真髄として愛されている。
近藤文夫(こんどう ふみお)
1947年東京都生まれ。高校卒業後、山の上ホテルに就職し「てんぷらと和食 山の上」に入店、二十三歳で料理長に。以後二十年以上同店で腕を奮い、常連の池波正太郎の『剣客商売 庖丁ごよみ』で料理を担当。1991年に独立、銀座に「てんぷら近藤」を開く。「ミシュランガイド東京」にて2008年より連続して2つ星を獲得。2019年てんぷら料理人としてはじめて「現代の名工」(厚生労働大臣表彰)に。2023年 「ミシュランガイド東京2024」にて功績の大きな個人に与えられるメンターシェフアワードを受賞。著書『天ぷらの全仕事』(柴田書店)ほか。
第二次大戦後の復興期の東京に生まれた近藤文夫氏。幼くして父を亡くし、
働く母を支えて兄弟で家事を担ううち、料理を仕事にすることが夢となった。
料理人も独立したら経営の知識が必要だろうと高校は商業科に進み、
卒業後は東京・神田の山の上ホテル調理部に就職した。
就職したとき社長に「和食の顔だ」と言われ、その一言で人生が決まりました。当時の和食の従業員は私も入れて三人だけ。「料理は見て覚えろ」という雰囲気で、教えてもらえません。仕事の合間に本を参考に独学で学びました。はじめて天ぷらを揚げたのは就職半年後ぐらい。ある宴会で急に屋台のようなところで天ぷらを揚げることになり、家で母親が揚げていた様子を思い出しながらなんとか揚げました。お客さんは揚げたてを喜んでくださいましたが、不完全さが身にしみました。
当時は「江戸前の天ぷら」といえば魚介の天ぷらです。野菜の天ぷらは惣菜とされ、天ぷら店に野菜はなかった。入社五年目で料理長を任せられ、勉強のために食べ歩きをしているうちに、そこに疑問を感じました。「日本料理はもちろん、フランス料理でも中華料理でも土地の野菜を上手に使っている。このままでは天ぷらは時代遅れになるかもしれない」。
思い切って「天ぷらにもっと野菜を使うべきではないか」と社長に進言すると、「俺もそう思う」と言ってくれました。
惣菜と我々の野菜の天ぷらをどう区別するか。野菜のうまみをどのように最大限まで生かすか。歯ごたえや香りも大事。そんなことを考えていたら、あるとき気が付いた。人間が風呂から上がると余熱で鏡が曇る。天ぷらも同じ。この余熱を使うべきじゃないかと。また、揚げすぎると水分がなくなっておいしくないことから、水分が肝心だと分かった。揚げすぎないように取り出し、水分の余熱で火を通す。火が入りすぎるとベシャッとするものは、包丁で切ることで熱を遮断する。これで香りや食感を保つことができます。
出版社の集まる神田界隈に位置する山の上ホテルは、出版関係者の利用が多かった。
近藤料理長の天ぷらは執筆のためにホテルを利用する作家や文化人に好評を博し、
食事目的でホテルを訪れる人も増えた。作家の池波正太郎氏にはとくに気に入られ、
常連客と料理人という以上の師弟にも似た関係に至った。
池波先生と親しくなったきっかけは、僕の大失敗です。あるとき先生にご自身の年齢をいくつと思うか尋ねられ、「七十歳くらいですか」と答えました。先生はそのとき何もおっしゃらなかったのですが、実際は五十八歳でした。僕の返事にショックを受けられたと他の方からお聞きして、大切なお客様を失った責任を取って辞職しようと思いました。ところが数日後、先生は笑顔でお見えになって、前回の件は何もおっしゃらない。「この先生にはもう一生頭があがらない」と思いました。
先生は食通として知られる方でしたが、料理に意見されたことはありません。おいしいときは、実においしそうに召し上がる。その表情が勉強になりました。ホテルの朝食の売り上げを上げるために考えた十三種類の小鉢を並べる朝食も、大変喜んでくださった。当時の旅館の朝食はご飯に味噌汁に焼き魚といった普通の定食でしたが、先生はちょこちょこいろんなものをつまむのがお好きでした。
四十歳を過ぎた頃、社長がなかなか許してくれない独立のことも池波先生に相談させていただきました。先生も四十歳を過ぎてから作家になられています。気学をされる先生は、「昭和65年から良い方向にいき昭和66年はとても良い年になるから焦らなくてもいい」ということをお手紙に書いて励ましてくださった。そして、昭和66年にあたる平成3(1991)年、本当に店を開くことができたのです。
年間売上800万円だった店を20年で3億6000万円に伸ばした料理長の独立に
社長は長く反対していたが、ついに「自分の認める物件なら許す」と条件をつけた。
物件探しをして唯一認められたのは銀座の一等地の物件である。当然賃料は高額だったが、
世を去った池波正太郎氏が愛した街、銀座こそが勝負の場だと覚悟を決めた。
はじめの三カ月は毎日閑古鳥が鳴いていました。ホテルのお客さんを奪うことのないよう、開業のことはどなたにも知らせていません。開業資金1億2000万円のうち銀行から借りた分が8500万円でしたから、「このままお客さんが来なかったら首をくくるしかない」とさえ思いました。そのとき、池波先生が亡くなる前に料理でお手伝いした著書の印税をいただき、なんとか乗り切れた。本当に助けられました。その後はお客さんが順調に増え、10年で返済予定の借金は7年で返済できました。
忙しくなっても、店の方針は変わりません。僕の願いはより多くの人に喜んでいただき、天ぷらを好きになっていただきたい、ということに尽きます。ですから素材はできるだけ良いものを使います。例えば世の中の椎茸の99%は菌床栽培ですが、原木栽培とは香りも歯ごたえも違う。独立してから、知り合いの案内で岩手の八幡平の農家を直接訪ね、やっと原木栽培の椎茸が手に入りました。
それからはより良い素材を手に入れるために各地の農家を直接訪ねるようになりました。良い素材を使えば高くつきます。でも、若い人に天ぷらを知ってもらえるよう、価格は抑えたい。そのためにうちは昼夜とも二回転させています。
ミシュランの2つ星を初めていただいたときは、天ぷらという料理に注目してくださったことが嬉しかったですね。逆に3つ星は望みません。3つ星はもっと価格が高く、高級ワインを出すような店にふさわしい。うちはそうではありません。あくまでも天ぷらの店。食後は近くの店でお酒を召し上がっていただき、池波先生が大好きだった銀座に少しでも貢献できればありがたいです。
料理界の常識にとらわれず、
独自のアイディアで
天ぷらの可能性を広げた近藤文夫氏。
若き日の挑戦を見守ってくれた人々の
多くは世を去ったが、店を訪れる人々に
喜んでもらえるよう尽くすことが、
なによりの恩返しになると信じている。
(後編へ続く)