鋳金家、鈴木盛久。剛直な鉄に、やさしさを鋳る。
鋳金家、鈴木盛久。剛直な鉄に、やさしさを鋳る。
南部鉄器鋳金家 十五代 鈴木盛久「鉄のやさしさ」

ビジネスの世界で「女性活躍」が謳われる昨今だが、伝統工芸の分野でも
慣例を破って女性が当主となり、歴史ある工房を継承する例が増えてきた。
旧南部藩御用鋳物師の「鈴木盛久工房」の十五代は、その草分け的な存在だ。
父の死により、当主の不在を埋めるべく、
四十歳を過ぎて始めた挑戦だったが、約三十年後の今、
初の女性当主は、現代の南部鉄器の名工のひとりに数えられる。

十五代 鈴木盛久(熊谷志衣子)

十五代 鈴木盛久(熊谷志衣子)

1945年東京都生まれ。父は、鋳金家で東京藝術大学教授の鈴木貫爾(十四代盛久)。武蔵野美術短期大学工芸工業デザイン科卒業。信田洋氏 篠和子氏に彫金を師事。1989年鈴木盛久工房で鋳金を始める。1993年第36回日本伝統工芸展に初出品入選。1998年日本伝統工芸会正会員に。十五代を襲名、受賞に、第15回全国伝統的工芸品展「内閣総理大臣賞」(1994年)、第55回日本伝統工芸展「高松宮記念賞」(2008年)、第41回伝統工芸日本金工展「文化庁官賞」(2012年)ほか。

鈴木盛久工房は、寛永2(1625)年、南部藩主が甲斐(現・山梨)の鋳物師、
鈴木越前守縫殿家綱を召し抱えたことに始まる。以来、工房は脈々と受け継がれ、
十三代は無形文化財(人間国宝)として文化庁に認定された。十五代はこの十三代の初孫だったが、
将来後継者になるとは、本人も周囲も予想だにしなかった。

 父は東京藝術大学で鋳金を教えていたので、私の生まれ育ちは東京なんです。小学生の頃は夏休みの間、父が制作に集中できるようにと、妹と盛岡に預けられていました。今は間取りが変わっていますが、ここは典型的な盛岡の町家で、祖父母は住み込みの職人さんとここで生活していたんです。
 奥の工房は、子どもには楽しい場所でした。工房で砂遊びしていると、砂の中から寛永通宝が出てきたりしてね。仕事を見るのも好きでしたが、将来は盛岡に住み、工房で仕事をするなんて、考えたこともありません。南部鉄器は女性の仕事ではなく、父は「卒業後に鋳金を続ける女性はいないから、女性に鋳金を教えたくない」とも言っていました。鋳金には火を扱える工場が必要で、力仕事も多いですから、女性が卒業後ひとりで作品制作を続けるのは難しかったと思います。

  • 旧南部藩御用鋳物師として、南部鉄器の発展に貢献した鈴木盛久工房。昔ながらの手技を受け継ぐ。
    旧南部藩御用鋳物師として、南部鉄器の発展に貢献した鈴木盛久工房。昔ながらの手技を受け継ぐ。
  • かつて住宅を兼ねていた店舗は、明治18(1885)年に建てられたもので、南部鉄器の工房ごと残っている町家として貴重である。
    かつて住宅を兼ねていた店舗は、明治18(1885)年に建てられたもので、南部鉄器の工房ごと残っている町家として貴重である。
  • 盛岡の南部鉄器
  • 盛岡の南部鉄器

    型のつくり方を説明する十五代。砂と粘土で土台をつくり、手にした木型を回して形を整える。

  • 盛岡の南部鉄器

    布を丸めたタンポや筆で、細かい川砂を型に軽く打ち付けると、それが鉄器の模様になる。

  • 盛岡の南部鉄器

    南部鉄器の代表的な模様「霰(あられ)」。
    型に一つ一つ手でへこみをつくったものが突起になる。

盛岡の南部鉄器

 江戸時代、盛岡では藩主の南部家の庇護によって鋳物づくりが行われ、江戸時代後期には茶釜、鉄瓶の名産地として知られた。地元で鋳金に必要な砂・粘土・鉄・漆が産出され、藩主や町人が茶の湯を好んだことが、南部鉄器の発展を支えた。
  工程は大きく分けて、鋳型づくり、鋳造、仕上げに分けられる。砂と土でつくった鋳型に溶かした鉄を流して成型するため、鋳型づくりが非常に重要となる。成型後、漆を焼き付け、鉄漿液(おはぐろえき)で着色する等により錆止めする。鉄瓶で沸かした湯は、鉄分により、まろやかな味になる。

十四代を継承し、東京藝術大学を退官した後、盛岡に戻る予定だった父は、定年前の昭和56(1981)年、
六十二歳の若さで世を去った。十三代はすでに亡く、数年後には母も病に倒れた。
彫金を学んだ長女は、工房のため、四十歳を過ぎて南部鉄器をつくり始める。

 小さいときからジュエリーが好きで、学生時代は彫金を専攻していました。結婚で盛岡に来た頃はまだ彫金を続けていましたが、子どもができて中断することにしました。彫金の工具や薬品は危険なので、子どもが触ったら大変でしょ。  父が亡くなり、盛岡に戻った母が工房の経営の仕事をするようになった頃は、完全に専業主婦でした。ときどき母の様子を見に行って、残っている職人とこのまま続けられれば、と思っていたのですが、母も病気になってしまったのです。そうなってみると、やはり当主になる人が必要なんですね。ところが妹と弟は美術に興味がなく、「私がやるしかない」と。  その後、子育てがひと段落してから工房に入り、ベテランの職人に聞きながら、ぶっつけ本番でつくり始めました。昔の職人は何年か見て覚える感じでしたが、私の場合、四十歳を過ぎていましたからね。順番は気にしないで、できることから手を動かしていきました。

  • 初めてつくった鉄瓶は、母が買い上げた。現在も鈴木家で湯沸かしに使用されている。
    初めてつくった鉄瓶は、母が買い上げた。現在も鈴木家で湯沸かしに使用されている。
周囲からは「本当にできるのか」と心配する声もあったが、夫の応援を受け、長年封じ込めていたものづくりへの情熱を鉄器に注ぎ込んだ。そして、平成元(1989)年、伝統工芸の大きな公募展、日本伝統工芸展に、初出品初入選の快挙を果たす。

周囲からは「本当にできるのか」と心配する声もあったが、夫の応援を受け、
長年封じ込めていたものづくりへの情熱を鉄器に注ぎ込んだ。そして、平成元(1989)年、
伝統工芸の大きな公募展、日本伝統工芸展に、初出品初入選の快挙を果たす。

  • 櫛目丸型鉄瓶。第15回全国伝統的工芸品展内閣総理大臣賞受賞(1991年)
    櫛目丸型鉄瓶。第15回全国伝統的工芸品展内閣総理大臣賞受賞(1991年)

 修業を始めて数年で初入選できたのは、形やデザインに先入観がないのが良かったのだろうと思います。当時の南部鉄器の職人さんは受け継がれてきた「家」ごとのデザインでつくり続けていましたから、私の好き勝手なデザインが新鮮だったのでしょう。
 たとえば、南部鉄器では櫛目模様は横に回転させて真っ直ぐ引いていくものですが、私は縦線を引いてみました。手で描くので深かったり、浅かったりしますが、機械的でないところが逆に面白いかなと思いました。また、南部鉄瓶の弦は横に張っているものが多いのですが、私は縦長にスルッとさせています。はじめは弦を専門につくる弦師さんに「これ長くない?」と言われ、「これでいいです」と押し切りました。
 やわらかく、あたたかみがあるものをつくりたいな、と最初から意識はしていました。あたたかさの表現は難しいけれど、仕上げのきれいさ、仕事の丁寧さが、あたたかさに通じるように思います。

父の死をきっかけに開花した才能は、短期間で受賞を重ね、平成5(1993)年、鈴木盛久十五代襲名に至る。その作品は南部鉄器の剛直なイメージから解き放たれ、鋳物のあたたかさと、やさしさを引き出している。(Part2へ続く)

父の死をきっかけに開花した才能は、短期間で受賞を重ね、平成5(1993)年、鈴木盛久十五代襲名に至る。その作品は南部鉄器の剛直なイメージから解き放たれ、鋳物のあたたかさと、やさしさを引き出している。
(Part2へ続く)

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南部鉄器鋳金家 十五代 鈴木盛久「日用の美学」編