子どもの健やかな成長を願う五月人形、女子のための雛人形をはじめ、
日本では人形を飾る習慣が受け継がれ、各地で特色ある人形がつくられている。
その中でも全国的な認知度が高い博多人形は、地元の土を使った素焼きの人形で、
色彩の美しさや繊細な表現により、世界でも高い評価を得てきた。
現在の博多を代表する人形作家、中村信喬氏は、激動の時代を生き抜いた祖父、
父から受け継いだものを手に、生きることの喜びや美を小さな人のかたちにこめる。
中村信喬(なかむらしんきょう)
1957(昭和32)年、福岡市に人形師中村衍涯(えんがい)(福岡県無形文化財)の長男として生まれる。九州産業大学芸術学部美術学科彫刻専攻(木彫)卒業。京都での人形修行を経て、1980(昭和55)年、家業の中村人形に入る。人形作家・林駒夫(重要無形文化財保持者)、陶芸家・村田陶苑、能面師・北沢一念に師事。1985(昭和60)年伝統工芸人形展初入選。以後、伝統工芸人形展、日本伝統工芸展で入選・受賞多数。2006(平成18)年福岡文化賞受賞(創造部門)。2011(平成23)年ローマ ラ・ルーチェ展出品、ローマ法王に拝謁・作品「伊東マンショ像」を献上。2013(平成25)年福岡市文化賞受賞。ユネスコの無形文化遺産に登録された「山・鉾・屋台行事」の一つ、博多祇園山笠の人形師としても活躍。「全国山・鉾・屋台保存連合会」の保存修復事業にも携わる。
博多人形は昭和初期まで高額で、人形師の仕事上の地位も高かった。
中村信喬氏の父方の祖父は、裕福な商家の子であったが、ものづくりが好きで、
大工になることを望んだところ、親の反対により人形師の道に進んだという。
名人と呼ばれたうちの祖父は、依頼があると大きな家が買えるようなお金をいただいて、お酒が飲めないくせに遊郭で毎日どんちゃん騒ぎしていたそうです。そんな祖父は中村家に「お粥食ってでも、良いものをつくれ」「人に夢や希望を与えるものをつくれ」という家訓を残しました。子どものころから聞かされて、なぜ「お粥食ってでも」なのかと不思議に思っていましたが、年をとって、だんだんとわかってきました。
日本の人形は、何かの願いや祈りをこめられ、人のそばにあるものです。大黒さんにしろ、五月人形にしろ、商売繁盛だったり、「この子が健康に育つように」という願いをこめてそばに置いて飾りますよね。デパートの外商の方によると、人形だけはお客さんに「買わせてもらっていいですか」「買わせてくれてありがとう」と言われることが多いそうです。それも人形が他のモノとは違うからでしょう。「お粥を食ってでも」という言葉は、人形師である以上はどんな困難があっても、見る人が夢や希望を感じられるような「良いもの」をつくらなければならない、という覚悟だと思っています。
博多人形とは
博多人形は素焼き人形の一種で、江戸時代初期、黒田藩が集めた陶工の中から始まった。福岡県では鎌倉時代の遺跡からも中国産と見られる素焼きの人形が見つかっていて、博多が交易地であったことが、人形づくりが発展する下地となったと見られる。
全国的に広く知られるようになったきっかけは、1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会と1900年(明治33年)のパリ万国博覧会への出品である。この頃から写実的な表現が取り入れられ、美術工芸品としての評価を高めた。分野は「美人もの」「歌舞伎もの」「能もの」「道釈もの」、「童もの」などが代表的。1976(昭和51)年、伝統工芸品の指定を受ける。
祖父の代から数えて三代目になる中村信喬氏は、生まれたときから「三代目」と呼ばれ、
子ども時代、二代目の父が写生に行くときには、自分用の画板を持たされ同行した。
しかし、やさしい父ではなく、父にほめられた記憶がない。
父と一緒にいるときは必ず正座で、敬語しか使ったことがありません。すごく怖いけれど、筋の通った人で、仕事は徹底していました。丑年用に牛の人形をつくるとなると、畜産センターに行って写生をしたり、飼育員に話を聞いたりするんです。ある展覧会で黒牛の人形をつくった人が、父に「乳牛を見てつくったんやろ」と言われて、「なんでわかった?」と驚いていました。それは骨格でわかるんです。
作品の感想を求める若い人に、「君はお金が欲しいんだろう。口から手が出るほど、お金が欲しいような顔の人形になっている」と言っていたときは、なんてひどい父かと思いました。でも、今は父の言ったことは本当のことだと思います。心の中のことは手を通して、つくった作品の顔に表れてしまう。ぼくは父のようには言わないですけれどね。
父には「人形師は上手にうそをつけ」とも教わりました。真実そのままの姿では、人形にはなりません。子どもでも、そのまま人形にしたら気持ちの悪いものになります。対象を徹底的に観察したり、周辺を調べたりした上で、創作するからこそ、見る人の心が動かされるんです。
博多人形の土
博多人形の土は、花崗岩の台地の上に位置する、福岡市城南区七隈で産出される。この地の粘土は粒子が細かく、カオリンなどの鉱物を豊富に含み、成形性が高いことから、繊細な彫刻を施すことができる。博多人形に用いられるのは、そのなかでも鉄分が少なく、色が白っぽいものである。
かつてこの地域はほとんどが農地で、粘土の産出は農家の副業であった。しかし、1970年代に急速に宅地化が進み、現在では製土所が一か所になり、今後が憂慮されている。
戦争中にシベリア抑留生活を経験し、死を恐れなかった父は、
1992(平成4)年、七十一歳で病により世を去る。
かねてからの約束通り、心臓が止まる直前、息子はその手を握った。
父はプライドが高く、人に世話されるのが大嫌いでしたから、病気がひどくなってもぎりぎりまで家で仕事をしていました。ついに入院しても「痛い」と言わないんです。はじめて「痛い」と言ったというので病院に駆けつけると、もう危篤状態でした。「とうちゃん」と言ったら、父が手を出してきたので、思わず手を握りました。前々から「自分が死ぬときには、右手を握れ。そのとき、じいさんから受け継いだ、目に見えないものを渡してやる」と言われていたんです。手を握ると、不思議なことに父と目がピタッと合って、互いに頷いていました。そのとき父の心臓が止まったのに、まだ血液が流れようとして全身がビクビクッと震えたことが、今も記憶に残っています。
そのときは何を受け継いだのかは、わかりませんでした。今は、やはり見えないものが人形づくりには大切だということがわかります。上手にできることと、人をひきつけることは、別のものですから。四代目になる息子は、生きているうちに渡してほしいと言いますけれど(笑)。
祖父、父から受け継いだ家訓を、
家業を継ぐ長男、
弘峰氏に伝えている中村信喬氏。
いつか必ずやってくる、
見えないものを渡す日までに
しっかりと受け取るための器を
つくって欲しいと願っている。
(Part2へ続く)