豊かな配色と繊細な絵模様、大胆な構成で人々を魅了する京友禅。
江戸時代後期に武家や公家を顧客としていた染匠を初代とする田畑家は
維新の激動を生き残り、手描き友禅の美を探求し続けてきた。
昭和の高度経済成長期から活躍し続ける五代 田畑喜八氏は、家業とともに、
奢ることなく、着る人の喜びを自身の喜びとする職人の思想を受け継いだ。
五代 田畑喜八(たばた きはち)
1935年京都市生まれ。早稲田大学第一文学部美術専修を卒業後、京都市立美術大学日本画科を修了。友禅染で初の重要無形文化財(人間国宝)に指定された祖父・三代喜八、父・四代喜八に師事。 1985年イタリア・ジェノヴァで日本染織作品展を開催するなど、染織の海外発信にも積極的に携わる。1995年五代田畑喜八を襲名。日本伝統工芸士会会長、日本染織作家協会理事長他、 数多くの伝統工芸の団体で後進の育成につとめる。田畑家のコレクションをまとめた著作多数。旭日双光章受章、文化庁長官表彰受賞。
田畑家は1820(文政8)年に初代喜八が「小房屋」の名で開業して以来、染匠を営む。
重要無形文化財(人間国宝)に指定された三代を祖父とする五代は、祖父の期待を感じつつ、
「一度は京都を出たい」と早稲田大学第一文学部美術専修で学んだ。
京都が嫌いというか、私の性格に合わない。高校では生徒会長やっていたけれど、京都は会議をしても手を挙げて意見を言わない。そのくせ後でいろいろ言う。そういうのが合わない。
ともかくこういう家だから、他で仕事をしても数年で家に戻って来いと言われるに違いない。それなら美術の勉強できる大学に行こうと思ったわけです。でも父親の後輩になるのは面白くない。 京都も出たい。いろいろ調べたら早稲田に美術専修がありました。もう50年、いや60年以上前ですな。大学生のはじめのうち東海道線は蒸気機関車、外食は切符制でした。
早稲田を卒業した後は京都の美大で実技だけやりました。午前は家で見習いみたいなことをして、午後は美大で日本画。それを2年やって卒業してからは朝から家で仕事をやりました。 この仕事は誰も教えてくれません。言葉は悪いけど、盗んで覚える。父親だけでなく、うちの関係のあちこちの職人の仕事を見に行かせてもらいました。
京友禅の歴史
京友禅の名前は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)、京で大人気だった扇画師、宮崎友禅斎の画風を取り入れた模様染に由来する。それまでにあった染め刺繍などの技法、狩野派の画面構成、
工芸の意匠などを取り入れることによって実現した、絵画のような華麗な着物は町人文化の隆盛した時代の人々の嗜好にふさわしかった。友禅染の細やかな多色の絵模様を可能にしたのは、
「糸目糊置き」と呼ばれる、布に細く置いた糊で滲みを防ぐ技法である。
その後も時代の流行や技術を取り入れ発展を続け、明治時代には化学染料と糊で色糊をつくり、型紙を使い友禅模様を写す技法が開発された。この「型友禅」と呼ばれる方法では量産が可能なことから、
明治後半以降、京友禅はより幅広い層に愛用されるようになった。
現在はその他に、色ごとにロール状の型を使って染める「機械捺染」、大型のデジタルプリンターを使うものなどもある。
子どもの頃、父である四代と祖父である三代は頻繁に仕事のことで言い争っていた。
それを見て「ああ、醜い。俺は絶対こんな大人になりたくない」と思っていたが、
本格的に仕事を始めるとほどなく親子喧嘩を始めた。
一生懸命に描いた絵を父親に見せにいくと「遅い!」。次は早く描いて持っていくと、「早すぎる!」。早くも遅くもなく描いた絵を見せると、「お前の絵は桜と違う! こんなもん針金の線や! 桜には桜の心、松には松、みんな心があんのや! お前の絵は心が入ってない‼」。あんまり言われるとこっちも「何をぬかす、この親父は‼」。声が大きくないと親子喧嘩、負けますからね、うちは父親も私も祖父もみんな声が大きいです。私が反抗すると「お前なんか出て行け!」 「親父こそ出ていけ!」。周りに「なんちゅうことを言わはるんや」と呆れられましたが、そんなのがしょっちゅうですわ。
後になってみますと、親の言っていたことは学校で教わったことと合うてます。「桜は桜の心」というのは、中国の美術工芸でいう六法のひとつ、「氣韻生動」に通じる。桜なら桜、梅なら梅、松なら松。 枝の硬さも花のやわらかさも違う。そういう気持ちが線に入っているかどうか。作者の心、魂といった「氣」がしっかり入っているかどうか、ということです。学校では「バカモン」は言わないですけど。
三十歳で独立して別の工房を構えたが、体調の悪化した父親の求めで、三十五歳で実家に戻る。
その際、「100%任せること」を条件として、株式会社田畑染飾美術研究所を設立した。
襲名はやりたくなかったです。そんなもん面倒くさい。けれど、世間に「しないとあかん」言われて、還暦を期限にやりました。襲名して変わったことはあらへん。儲かるわけでもないですわ。 この仕事をするときに、父親から「金儲けするんやったら、この仕事やめとけ」と言われました。そのときはなんでそんなこと言うのやろと思いましたけど、やってみてわかりました。なるほど金儲けはだめですな。 手描き友禅というのは手でやりますから、多量にはできません。そのかわり、同じようにつくろうとしても、世界にひとつだけのものしかできないというのが強みです。色を微妙に変えたり、自在にできます。 それを喜んで着ていただけるというのは、大きな喜びですな。
田畑家ではお客さんを「華主」といって、「華主 大和花子様」という表示をします。美しい「華」の主人公はお召しになるお客さんということです。自分たちが中心でない。賞とか地位がどうこうでもない。 格調ある友禅染をつくり、お客さんに最高に喜んで使っていただくことが、田畑家の役目だと思います。
「華主」の二文字を明治の文豪、
泉鏡花は「とくい」と読ませた。
華を求める顧客に、
美の主人公になってもらうため
線の一つもおろそかにしなかった
田畑家の人々。
当代もまた、職人が
魂をこめてつくった友禅染は
日本の女性を最大限に
美しくすると信じている。
(後編へ続く)