全身全霊で鍛えるから刀は美しく、強くなる
全身全霊で鍛えるから刀は美しく、強くなる
刀匠 河内國平「魂の武器」

日本の刀は単なる武具ではない。古墳の時代は王族、皇族とともに葬られ、
神の社に宝物として献じられる。そして武家においては、主従あるいは一族の
固い結びつきの象徴として受け継がれ、「武士の魂」として大切に扱われた。
しかし、明治の廃刀令で需要は激減し、第二次大戦後は作刀も禁止された。
刀鍛冶の苦難を知りながら、あえて先祖と同じ道を選んだ刀匠、河内國平氏は、
歴史上の名匠たちの高みを目指して、今日も赤光を放つ鋼を叩く。

河内國平(かわちくにひら)

1941年大阪府生まれ。本名、道雄。関西大学法学部在学中に考古学者末永雅雄に師事。大学卒業後すぐ刀匠の宮入昭平(のち行平に改名)に入門、相州伝を習う。1972年独立し、奈良県東吉野村に鍛冶場を設立。1984年隅谷正峯に入門、備前伝を習う。1987年無鑑査認定。2005年石上神宮の鋳造七支刀復元に参加。2005年奈良県無形文化財保持者。2015年「黄綬褒章」受賞。伊勢神宮第61回・第62回遷宮大刀、鉾を製作のほか、熱田神宮、香取神宮、橿原考古学研究所付属博物館などに作刀作品収蔵。著書『刀匠が教える 日本刀の魅力』(里文出版)、NHK『美の壷』ほか多数のメディアで日本刀を解説。

平成の刀匠を代表する一人、河内國平氏は、実は勤め人になるつもりだった。
家は代々刀鍛冶を業とし、父親は十四代河内守國助を名乗っていたが、
第二次大戦後はGHQによる武器製造禁止などのために、刀をつくることをあきらめていた。

 親父は「刀の時代はもう来ない」と、包丁をつくるようになったんです。でも、刀と包丁は全然違う。さっぱり売れなくて、子ども時代のわが家は赤貧洗うが如し。20年近く苦労してやっと上向きになりました。法学部を選んだのは、就職のためだけですわ。親父の影響で美術とか骨董が好きやった。煙草、酒、麻雀はやらないので、勤め人をできるのか心配でした。
 大学4年になった頃、友達がのちに師匠になる宮入(みやいり)昭平が書いた『刀匠一代』という本を持ってきてくれた。その本の最後の2行、「……せめて一人でもよい。将来を託せるような刀鍛冶が生まれてくれないかと、そればかりを切に願ってやみません。」という文章を読んだとき、僕の人生の方針が変わりました。何の迷いもなく、「よし、後を継いだろ」と。母親は「大学まで行かせたのに」と泣いて反対したけれど、親父はさすがに反対しなかった。鍛冶屋の子が鍛冶屋になるの、普通のことやもんな。

  • 最後の2行が、河内氏の人生を決めた。宮入昭平著『刀匠一代』(人物往来社、1964年)より。
    最後の2行が、河内氏の人生を決めた。宮入昭平著『刀匠一代』(人物往来社、1964年)より。
  • この本の発刊の前年、著者の宮入昭平は国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された。
    この本の発刊の前年、著者の宮入昭平は国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された。
  • 大学四年の夏休みに、宮入昭平を訪ねて炭焼きを手伝った。入門を希望すると「卒業してから来い」と叱られた。
    大学四年の夏休みに、宮入昭平を訪ねて炭焼きを手伝った。入門を希望すると「卒業してから来い」と叱られた。

日本刀の歴史

鉄の刀剣が大陸からもたらされたのは、弥生時代にさかのぼる。平安時代、武家勢力の成長とともに、片刃で反りがあることを特徴とする日本刀の形式が発展。源平合戦の時代は片手で握り、馬上での戦闘に使用する「太刀(たち)」が中心だった。室町時代、両手に握り、地上で戦うための「刀(かたな)」の形式が完成。正宗(まさむね)など、数々の名工が傑作を残す。主要な産地から作風は、「大和伝」「備前伝」「山城伝」「美濃伝」「相州伝」の5つに分けられる。江戸時代、関が原の戦いの前後で「古刀」「新刀」と分けるようになり、平和な時代には装飾的な技術が発展した。明治の廃刀令で需要は激減したが、警察や軍で使用された。明治以降のものを「現代刀」と呼ぶ。

  • 日本刀の材料となる、玉鋼(たまはがね)。
    たたら製鉄の技法で製造される、鉄と炭素の合金である。
  • 鉄を叩いて延ばす作業を繰り返すことで、
    鉄に含まれる炭素量が減少し、刀に適した地鉄となる。
  • 研ぐ前の刀身。刀匠は刀づくりに使う道具から自分でつくる。
  • 鍛錬した地鉄を適材適所に組み合わせ、
    鍛接して打ち伸ばし、刀の形をつくる。

大学4年の秋に卒業資格を得ると「相州伝」という技法の人間国宝、宮入昭平に入門。
技術はもちろん、仕事との向き合い方、謹厳な生活スタイルまで、
師匠の一挙手一投足を見つめ、自身の未来への指針とした。

 師匠の宮入昭平という人を一言でいえば、日本の最後の職人。生活や精神をちゃんとしないで、いいものはつくれないという考えで、態度や生活にものすごく厳しかった。入ったばかりの弟子の仕事は、庭掃除と使い走り。入門から3年間は1日も休みがありませんでしたね。土日休日、関係なし。信州の立科町の近くで、夏の炭焼きのときは山に入って電気がないから明るくなったら起き、暗くなったら寝る。そうやって生活するから、いい炭がつくれるし、いい刀がつくれるわけです。
 よく若い子が「息抜き」やら「自分探しの旅」やら言いますやろ。そんなことする間があったら、仕事せなあかんですよ。その世界で本気にものをつくろうと思ったら、な。
 ぼくらの場合、今の時代にも正宗の刀が残ってるし、鎌倉時代の一文字なんて刀が残ってるわけや。それに負けんものつくろうと思ったら、「好き」程度での気持ちでやったらあかん闘いや。

  • 高齢を理由に、河内氏は現在新しい弟子を採用していない。今一緒に働いている金田達吉(國真)さんが最後の弟子となるだろう。
    高齢を理由に、河内氏は現在新しい弟子を採用していない。今一緒に働いている金田達吉(國真)さんが最後の弟子となるだろう。
  • 自身は左利きで、修行を始めたときはすべての道具をほかの人と同じように使うことができず、劣等感に苦しんだという。
    自身は左利きで、修行を始めたときはすべての道具をほかの人と同じように使うことができず、劣等感に苦しんだという。
  • 河内氏の工房と自宅(右手前)のある奈良県東吉野村は、最後のニホンオオカミのいた村として知られる。

30歳で独立が許され、父の友人の支援で奈良県東吉野村に工房を設けた河内國平氏。
以後、品評会で頭角を現したが、40代にして一念発起、人間国宝の隅谷(すみたに)正峯に学ぶため、
妻子を連れて石川県に移り住んだ。修業中は無収入だったが、
夫の思いを知る夫人は再入門を受け入れ、約1年半、パートで家計を支えた。

 30代で日本美術刀剣保存協会の新作名刀で特賞を6回取れた。でも、そこで行き詰まってしまいました。8回特賞になると「無鑑査」という立場になって、誰も教えてくれなくなる。宮入が亡くなったこともあり、このままでいいのか悩み、「備前伝」という技法の人間国宝、隅谷先生のところに行きました。
 最初は驚きましたね。先生が仕事をしている横で弟子がお茶を飲んでいて、こうも違うかと。そもそも隅谷先生は弟子に細かく教えない。宮入は何でも見せました。でも、隅谷先生の弟子は、教えてもらえないから必死に技術を盗もうとする。それも正しい教え方だと思いますよ。
 隅谷先生のところにいる間に2回連続で特賞になり、1年半で「帰っていい」ということになりました。家族と一緒に石川県に行ったのは、徹底してやる覚悟だったから。
 結婚は、そりゃ見合いですよ。恋愛する機会なんてあらへんもん。結婚してから嫁と恋愛してんねん。みんなが逆なんや。恋愛してから結婚するから、嫌いになるんですよ。

人に合わせる生き方を捨てて、日本刀に人生すべてを賭けることを選んだ河内國平氏。師匠の背中を追いかけた日々を経て、40代、家族に支えられ、自分の道を探し始めた。その道は刀匠たちがいつか見失った、古刀の美へと続くものでなければならなかった。(PART2「名刀への挑戦」編へつづく)

人に合わせる生き方を捨てて、
日本刀に人生すべてを賭けることを
選んだ河内國平氏。
師匠の背中を追いかけた日々を経て、
 40代、家族に支えられ、
自分の道を探し始めた。
その道は刀匠たちがいつか見失った、
古刀の美へと続くものでなければ
ならなかった。

(「名刀への挑戦」編へつづく)

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