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豊かな緑や自然が紡ぐ住環境

「氷川神社」へ続く「氷川参道」や「大宮公園」、見沼田園周辺は、「さいたま市みどりの条例」に基づき保存緑地に指定されています。この保存緑地を「風致地区(ふうちちく)」と呼び、自然的景観が都市計画法によって守られています。
そのため、新たな宅地やビルの造成が制限され、緑豊かな住環境も守られてきました。
現在、約700本ある「氷川参道」の巨樹のうち、19本が市の天然記念物に指定されており、先人の営みや歴史を形あるものとして遺そうとする姿勢が伺えます。

見沼周辺は江戸時代、徳川吉宗の財政改革として知られる享保の改革によって、「見沼たんぼ」として整備されました。農業用水の確保のため、利根川から約60kmに渡って引かれた水路「 見沼代用水(みぬまだいようすい)」は、流れを止めることなく今も姿を留めています。
こうして「見沼たんぼ」が開かれてから、今日まで稲作が続き、特に戦後は食糧増産を支える貴重な農業生産の場となりました。
高度経済成長期をむかえ宅地や道路の造成など、土地利用の転換が行われるようになった後も、首都近郊に残された数少ない「大規模緑地空間」としての田園を守ろうとする動きが活発となり、1995年(平成7年)「見沼田園の保全・活用・創造の基本方針」が策定されました。
このように、時代が移りかわっても、次の世代へバトンを繋ごうとする市民や行政の活動が、古代からの自然環境を守り続け、豊かな住環境を紡いでいるのです。

  1. 「大宮公園」と「大宮第二公園」をつなぐ「はなみずき通り」。
  2. 見沼に代わる用水ということから名付けられた「見沼代用水(みぬまだいようすい)」。
  3. 田園風景の中を流れる一級河川「芝川」。川沿いはサイクリングに最適。
  4. 天然記念物として市の指定を受けた「氷川参道」の巨樹にはプレートが付けられている。
  5. 釣りも楽しめる「ひょうたん池」。周囲をソメイヨシノがぐるりと囲む。
大宮に縁のある文人たち
文明開化によって急速に近代化した明治以降、大宮には武蔵野の面影を求めて多くの文人たちが訪れました。まだ東京帝国大学の学生だった正岡子規は1891年(明治24年)秋に「大宮公園」を訪れた際、今は無き公園内の旅館「萬松楼(ばんしょうろう)」に滞在しました。この時、夏目漱石も松山から呼ばれて滞在。子規は「寒山落木」(1898年)の中でその時のことを詠んでいます。1913年(大正2年)の森鴎外の作品「青年」では、主人公と親友が「大宮公園」で人生論などを語り合う場面や、公園内の料理茶屋などが描かれています。また、樋口一葉や永井荷風が「大宮公園」を作中で表現し、寺田寅彦や田山花袋が随筆の中で称讃しました。太宰治は1948年(昭和23年)4月29日から2週間程この地に滞在し、「氷川参道」を散歩しつつ「人間失格」を書き上げたほか、自死する前日にこの地を訪れていたことが伝わっており、特別な場所だったことが分かります。

「大宮・高鼻町」エリアを歩いていると、 「氷川参道」の高木や巨大な鳥居から醸し出される荘厳な雰囲気に、 太古から連綿と続いてきた歴史が想起されます。
移ろい行く時代の中で、文人たちにも愛されたこの豊かな自然は、 地域住民の植林や保護運動によって形をかえながらも継承されてきました。
こうして育まれてきた自然や歴史が文化となり、 この地に暮らす人々にとってのかけがえのない環境資産として 大切に守り育てられています。
いわば、このエリアそのものが後世へと伝え継がれた 結晶と言えるのかもしれませんね。

取材メモ
大宮は、教育の街というイメージと、コンサートで度々訪れた「大宮ソニックシティ」がある、開けた商業都市というイメージがありました。
そうした印象を持って改めて街を歩いてみると、抱いていたイメージとは違った一面に気づかされました。
「氷川参道」に一歩足を踏み入れると訪れる静寂、木漏れ日に読書を楽しむ人々、参道沿いにひっそりと佇む老舗のお煎餅屋さんやお団子屋さん。そして時折聞こえてくる野鳥の声。そこには自然を畏れ敬い、未来へ繋ごうとする強くも温もりに溢れた意志を感じることができます。
きっと、時代に寄り添って暮らしてきた人々の歴史が脈々と受け継がれてきたからなのでしょう。
(掲載の情報は2015年9月時点のものです。)
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