
2019年に初演から三百周年を迎える沖縄の伝統芸能「組踊」。
ユネスコの無形文化遺産に登録されるなど、世界的に評価される一方、
作品の数が少なく、能や歌舞伎に比べ興行が厳しいなどの課題も抱える。
組踊立方(役者)の人間国宝、宮城能鳳氏は、自らの経験や師匠の教えをもとに
琉球王国から伝わる美の世界を次の世代につなげようと
後進の指導や創作に、若き日より衰えぬままの情熱を燃やす。
宮城能鳳氏の少年時代、アメリカの統治下にあった沖縄では、
復興とともに地域の伝統的な祭りが再び盛んに行われるようになっていた。
今も芸能がさかんな沖縄だが、その原点は祭りにあるといわれる。
私が育った時代の沖縄では、集落の祭りで村芝居や村踊などの芸能が行われていました。演じるのは地域の一般の人たちです。うちの父はふだんから三線を稽古していて、よその集落の祭りでも演奏していました。姉も村踊りのリーダーをやっていて、私も父の仲間から舞踊を習いました。でも、高校時代に舞踊からいったん離れています。内地の音大で声楽を学ぼうと、ピアノを一生懸命やっていました。ところが母親を亡くしたものですから進学をあきらめ、琉球政府の役人になりました。
働き始めてまもなく、宮城能造師匠の舞台をはじめて拝見し、女形の美しさに大変感動いたしました。やっぱり芸能をやりたいと、役所勤めをしながら入門しました。転機は海外公演です。各流派から人が集まって「沖縄歌舞団」として全国公演の後にソ連、ポーランドに行くという、三カ月も続く公演でした。これでは職場に迷惑がかかりますから、これからは芸能を専門でいこう、と決めたのです。
舞踊は女性が趣味でやるものと思われていたため、周囲の人のほとんどは
退職には猛反対した。しかし、沖縄の芸能を愛する家族は違った。
父と姉はそれぞれの知識を活かし、日々の稽古や舞台出演を応援した。
退職してからは、昼間に先生から直々に教えていただき、家に帰ると父の三線でおさらいをしました。父は演奏しながら私の足さばきしか見ないのですが、「あなたの歩みはなっていない」とか厳しく指摘されました。今思えば足さばきは基本中の基本なので、父は大事なところを見ていました。おかげで他のお弟子さんより早く習得できたと思います。姉は村踊をやっていましたから、公演があると私の衣装をはじめ、いろいろと考えてくれました。公演当日は名護辺りまでならついてきて、終わると化粧がどう、着付けがこう、技のここが悪かった、といった批評をしてくれるのです。祖母は祖母で、家で私が踊ると手拍子を打って楽しんでいました。
本格的に始めたのが遅かったので、他の人についていくには何倍も稽古をしなくてはいけないという意識が強かったですね。恥ずかしいくらい、遊び事は何も知りません。稽古がなければ先生や先輩方の舞台を見に行き、舞踊舞踊、組踊組踊という青春でした。
沖縄の芸能の世界に飛び込み、半世紀以上が過ぎたが、
永遠の命を得たかのように、舞台での姿は美しく艶やかだ。
しかし、舞台裏では肉体の衰えに苦しんでいる日もあるという。
「負けるものか」という気持ちで何十年もやってきたせいでしょうか、ぎっくり腰のときも、舞台に出ると荒々しい「高平良萬歳」を、何ともないように演じていました。そのときは足袋を自分では履けないほどで、弟子に履かせてもらいましたが、拵えをしてスタンバイしていると、もう役の気持ちだったのですね。音曲が鳴り出したら、何の意識もなく舞台に出ていって、後は自分でどう踊ったかもわかりません。終わって楽屋に戻ったら、衣装を取るのも大変でした。
私がこの世界に入った頃に比べると、組踊を取り巻く環境はずいぶん良くなりました。とくに衣装や小道具は良くなりましたね。先輩たちは戦争で衣装も小道具も失われ、身近にあるもので代用させていたそうですが、今は工芸のつくり手も増えています。県立沖縄芸術大学や国立劇場おきなわの組踊研修などで若い立方や地方も育っています。新作に挑戦する人も増えました。
新しい時代にも組踊は組踊ですから、その様式や約束ごとは正しく守らなくてはいけません。ですから、先輩たちが伝えてくれた古典劇をしっかりと次の世代に伝えたい。八十歳を過ぎましたが、体力気力が続く限り、一生懸命頑張っていこうと思います。
同世代の人々が徐々に舞台を
去っていくのを見送りながら、
はるかに年下の弟子や教え子たちと
舞台に立ち続ける宮城能鳳氏。
琉球芸能に賭ける無限のエネルギーと
役者魂は、沖縄のみならず
日本の演劇界に語り継がれていくだろう。
(了)