
毛利輝元が発案した平城・広島城。当時の天下人・豊臣秀吉が建てた京都の聚楽第や大坂城に刺激を受け、城下町と一体化し、政治・経済の中心地として機能する城を造ろうと考えたのが、始まりでした。
広島城の城郭構成は、本丸、二の丸の周りを内堀、中堀、外堀の三重の堀が囲み、三の丸、大手廓、北の丸、北の廓、西の丸などが配されていました。城の西側は本川(現・太田川)を天然の要害として活用。要所には92もの櫓を設けるなど堅固な守りを誇っていました。当時の天守閣は五重の天守閣を中心に、東西に2つの小天守閣が連なる連結式を形成。毛利氏の象徴として威厳に満ちた勇姿を見せていました。現在の天守閣は昭和33年(1958)に復元されたものです。
毛利輝元が関ヶ原の戦い(1600年)で敗れ、徳川家康の命により周防・長門の2国に封じられた後、福島正則が新たな城主として入城。その18年後、正則は勝手に城を改修したとの理由で国替えとなり、浅野長晟が入城。以降、広島は浅野家の統治となりました。
城主ゆかりの地としては、藩の安泰を願った「明星院」(広島市東区二葉の里)があります。
広島城の鬼門(北東)に位置することから、歴代の城主が藩の安泰を祈る寺として手厚く保護。毛利輝元は母親の菩提寺にもしました。本堂内には、広島浅野家の分家にあたる赤穂浅野家の四十七士の木造を安置。全国から忠臣蔵ファンも訪れます。
武将茶人が築庭した「縮景園」もゆかりの地の一つです。浅野長晟の命を受けて、当時の家老、茶人としても名高い上田宗箇が築庭した名園。中国浙江省の西湖を真似た造りから、「縮景園」と命名されたといわれています。その造りは、中央の池を跨虹橋で二分し、茶室や小亭、山、川、島などを巧みに配し、園路によって庭内を回遊する、回遊式庭園。歴代の藩主は、この庭園をこよなく愛しました。
お好み焼文化を知ることができる施設があります。お好み焼と共に歩んできたオタフクソースの「Wood Egg お好み焼館」。広島流お好み焼に欠かせないお好みソースの代表格・オタフクソース。お好み焼を囲む笑顔と団らんを、日本に、世界に広めたいとの思いで「Wood Egg お好み焼館」は造られました。名称は、地球環境への思いを「Wood」で表し、お好み焼に使用する卵の「Egg」と合わせたもの。館内には、さまざまな角度からお好み焼が紹介されているほか、体験もできます。
2階は「おこのミュージアム」。オタフクとお好み焼ゾーンでは、オタフクお好みソースの誕生秘話や広島お好み焼の進化の様子などを紹介しています。ソースのおいしさ紹介ゾーンではオタフクお好みソースのおいしさの秘密、たくさんの香辛料やこだわりの原料「デーツ」の実物を展示。昭和30年代のお好み焼店ゾーンでは、当時の店舗を再現。お好み焼の歴史ゾーンでは、ルーツの一銭洋食などについて知ることができます。
3階は「みんなで楽しくお好み焼」。大スクリーンでオタフクに関する映像を観賞したり、キッチンスタジオでホットプレートを使ってお好み焼作りを体験でき、おいしく焼き上げるコツを学んだりできます。そのほか、4階はお好み焼店の開業希望者が開店ノウハウから実技までの講習を受けられる会場、別館には鉄板で焼くお好み焼の体験スタジオや商品・グッズの販売コーナーなどが設けられています。
さらにお好み焼の歴史を探るべく、歴史あるお好み焼店「みっちゃん」にお話をききました。
戦後まもない昭和25年、井畝井三男さんが焼け野原だった広島の街に「美笠屋」の名で開いたお好み焼の屋台が、広島流お好み焼ののルーツ。当時19歳だった息子の満夫さんが、病弱の父に代わって店を継承し、広島の街に「お好み焼」を誕生させました。店名は、自身満夫の愛称「みっちゃん」をそのまま命名したもの。昼間は街の復興のために汗をかき、夕方5時から翌朝5~6時まで屋台でお好み焼を焼く……そんな毎日の積み重ねが、満夫さんの半世紀を超えるお好み焼人生を支えてきたのです。
当時のお好み焼はクレープ状の生地にネギと少しの野菜を乗せて焼いた質素なもの。それを半月状に折りたたみ、ウスターソースを塗り、木の皮に乗せて新聞紙に包んで売っていました。しかし、具が少なく、小腹が空いたときに食べるおやつ感覚のものだったことから、食糧のない時代にはお腹を満たす量でなければ売れないと考えた満夫さん。昭和30年代にかけて「みっちゃん」独自のアイデアやひらめきを生かし、現在のお好み焼の原形を創り出しました。そば・キャベツ・モヤシ・豚三枚肉が入る今のスタイル、鉄板の上でヘラを使って食べる様式など、どれも「みっちゃん」から生まれたものです。「県内に1800~2000軒はあるといわれるほど、今ではお好み焼の町になりました」と井畝満夫さん。たゆまない努力と工夫で、今日の広島流お好み焼の礎を築いた巨匠は、81歳を迎えた今も、体調がよければ鉄板の前に立ち腕を振るいます。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン……。車体をリズミカルな振動で揺らしながら、のんびりと広島の街を走る路面電車。モータリゼーションの発達で、全国から次々とその姿を消していったなか、広島の路面電車は現在も市民の大切な生活の足として、毎日たくさんの人に利用されています。
広島に路面電車が走り始めたのは大正元年(1912)。広島駅~相生橋間など、市内中心部を走る4路線で運行され、当時の運賃は2銭でした。そこには、被爆という大きな痛手を受けながらも、3日後には一部区間で復旧。街の復興に向けて動き出す市民の大きな支えになったという歴史もあります。その後、街は発展し、現在は全長35.1kmを運行しています。
そんな広島の路面電車の魅力は、いろいろな種類の車両が走っていることです。全国で廃止になった路線の電車も活躍しており、カラフルにラッピングされて生まれ変わった車両もありますが、レトロな雰囲気はそこかしこに感じられます。加えて、近年では最新のバリアフリー車両も増え、さながら「走る電車博物館」のようです。
県内には200を超える団体があるといわれ、全国有数の神楽の宝庫として有名な広島県。広島神楽は「芸北神楽」「安芸十二神祇」「芸予諸島の神楽」「比婆荒神神楽」「備後神楽」の5つに分類されています。特に「芸北神楽」は創作的な「新舞」が盛んで、その演劇的な内容と豪華な衣装、凝った演出で人気を博しています。
そうした多彩な神楽を街の真ん中で気軽に楽しめるのが、県民文化センターで毎週水曜の夜7時から開催されている広島神楽の定期公演。県内各地の神楽団による迫力に満ちた公演が、市内中心部を訪れた観光客、とりわけ外国人を魅了しています。公演後は、神楽の衣装を着て記念撮影ができ、評判も上々。広島の夜のにぎわいに一役買っています。
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