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[Part.1]やらまいか精神に育まれた街と文化「浜松」
[Part.2]存在感あふれる、ご当地グルメの名所
[Part.1]やらまいか精神に育まれた街と文化「浜松」
浜松という地名から、読者の皆さまは何をイメージするでしょうか。徳川家康、楽器、オートバイや自動車。そして、うなぎ。最近では餃子も全国の名物です。このように、浜松には実にさまざまな「~のまち」という顔がありますが、それを支えるのは、進取の気風に富み、それぞれの分野を切り拓いてきた人々や企業。ただ話題づくりのために持ち出された「~のまち」とはひと味違う貫禄がそこにはあります。浜松をはじめとする静岡県西部には、「やらまいか」という言葉があるそうです。これは、やってみよう、やろうじゃないか、という意味。「やらまいか」精神が息づく、ものづくりの風土が創りだす、浜松の多彩な表情を訪ねます。
  • アクトシティ浜松
  • ぬくもり工房
  • オプトエレクトロニクス産業
  • オートバイのふるさと
楽器をつくるまち、から、音楽と暮らすまちへ。アクトシティ浜松
  • 日本初の四面舞台を擁する大ホール
  • 日本初の四面舞台を擁する大ホール
  • 音楽のまち・浜松のシンボル
  • 国内初の公立楽器博物館「浜松楽器博物館」
  • 国内初の公立楽器博物館「浜松楽器博物館」

 「浜松」駅の近くにそびえる「アクトシティ浜松」。ここは音楽のまち・浜松のシンボルです。施設の中核になっている日本初の四面舞台を擁する大ホールは、「浜松国際ピアノコンクール」などの会場としても知られています。
 浜松は、ヤマハやカワイ、ローランド、BOSSといった名だたる楽器メーカーの本拠地です。ヤマハの創業者・山葉寅楠が尋常小学校のオルガンを修理したことをきっかけに、国産化を思い立ったことから浜松の洋楽器づくりは始まりました。そして、ヤマハから独立した技術者がカワイを創業したように、浜松の洋楽器産業は大きく広がり、一時は下請けの工房なども含めると100社にせまる企業があったといいます。
 ここには、もうひとつ音楽関連の施設があります。国内初の公立楽器博物館である「浜松市楽器博物館」です。世界中から集められた3,300点におよぶ楽器を収蔵。館内では演奏会も開かれ、楽器を見るだけではなく、音も大切な"展示物"になっています。
 収蔵の楽器の一部は、実際に演奏可能な状態を目指して保存されていますが、メンテナンスに高度な技術を必要とするものも少なくありません。それをできる熟練の技術者が身近にいるのも浜松のすばらしい点、という職員の方の言葉が印象的でした。

アクトシティ浜松
浜松市楽器博物館
浜松ものづくりの源流をよみがえらせる。ぬくもり工房
  • 明るく現代的にアレンジされた「遠州綿紬」
  • 明るく現代的にアレンジされた「遠州綿紬」
  • 明るく現代的にアレンジされた「遠州綿紬」
  • 明るく現代的にアレンジされた「遠州綿紬」

 浜北区の高台に広がる閑静な住宅街。その一角に、おしゃれな佇まいの「ぬくもり工房」があります。浜松の伝統織物「遠州綿紬」の魅力を現代に伝えるショップです。
 浜松は繊維のまちでもあります。木綿の生産地として知られ、江戸時代中期から手織りの綿織物が発達。明治期には紡績工場が作られ、一大産業に発展します。その際、織機の自動化に取り組んだのが、現在のスズキやトヨタといった企業の創業者たち。つまり、綿織物は浜松の「ものづくり」のルーツともいえるのです。
 しかし、近年の「遠州綿紬」は、機織り職人も減り、減産傾向にありました。この魅力ある織物がこのまま消えてしまうのは惜しい。「遠州綿紬」に可能性を感じて復興に取り組み、再び増産に転じるきっかけを作ったのが「ぬくもり工房」代表の大高さんでした。
 縞柄の美しさや温かみといった伝統を継承しながら、明るく現代的にアレンジされた「遠州綿紬」。その生地の魅力に、衣類はもちろん、富士山の形をしたバッグ、小物など、新しい提案をプラスした商品は、個人から企業の記念品まで、幅広い引き合いがあるそう。「もっと縞柄で遊んでみたい」と語る大高さん。その名刺には"ストライププロデューサー"の肩書きがありました。

ぬくもり工房
テレビ発祥の地は、いまも世界をリードし続ける。オプトエレクトロニクス産業
  • 市内2カ所に建つ記念碑
  • 市内2カ所に建つ記念碑
  • 高柳健次郎の業績を顕彰する「高柳記念未来技術創造館」
  • 高柳健次郎の業績を顕彰する「高柳記念未来技術創造館」

 ご存じない方が多いかもしれませんが、浜松はテレビ発祥の地でもあります。浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)の助教授だった高柳健次郎が、世界に先がけてブラウン管の映像実験に成功。当時、テレビの技術にはいくつかの方法が模索されていましたが、現在のテレビは彼の開発した技術を受け継いでいます。静岡大学キャンパスには彼の業績を顕彰する「高柳記念未来技術創造館」があります。また、市内2カ所に記念碑があり、いずれにも彼が初めて画面に映し出した「イ」の文字があしらわれています。
 そして、高柳健次郎が浜松に残したものは、これだけではありませんでした。浜松には光技術分野で世界の最先端を走る「浜松ホトニクス」という企業があります。ノーベル物理学賞を受賞した東京大学特別栄誉教授小柴昌俊氏の研究施設カミオカンデに使用された大口径光電子増倍管や、2010年に小惑星イトカワへの旅を終えて帰還した小惑星探査機はやぶさに搭載されていた光センサを開発・製造した企業です。その創業者である堀内平八郎は、高柳健次郎のもとで学んだ人物でした。
 光産業もまた「やらまいか」精神を受け継ぐ浜松の代表的な産業なのです。

高柳記念未来技術創造館
代表メーカーを輩出し、オートバイ産業を支える。オートバイのふるさと
  • 浜松市の「スズキ歴史館」
  • 浜松市の「スズキ歴史館」
  • 浜松市の「スズキ歴史館」
  • 磐田市の「ヤマハコミュニケーションプラザ」
  • 磐田市の「ヤマハコミュニケーションプラザ」
  • 磐田市の「ヤマハコミュニケーションプラザ」

 オートバイのふるさと――。浜松には、そう呼ばれるにふさわしい歴史があります。1946年、ホンダの創業者・本田宗一郎が小型エンジンを自転車に取り付けて試走。浜松のオートバイ製造の原点です。1952年、織機メーカーだったスズキも自転車補助エンジンを完成。1954年にオートバイ製造を始めました。そして、戦時中に航空機のプロペラを製造していたヤマハも、1953年に進駐軍の接収が解除されると、オートバイの開発を始め、翌年に試作車を完成。1955年にはオートバイ生産部門が分離独立し、ヤマハ発動機が誕生しました。
 浜松市の「スズキ歴史館」、磐田市の「ヤマハコミュニケーションプラザ」は、オートバイが好きな方なら、ぜひ足を運んでみていただきたい施設。「スズキ歴史館」では、創業時に手がけていた織機から、現在世界中で活躍する自動車まで、その歩みをたどることができます。また、「ヤマハコミュニケーションプラザ」は、オートバイをはじめ、ボート、産業用ロボットなど、幅広い事業を手がけるヤマハ発動機の新旧の製品、技術が一堂に集結しています。もちろん、いずれにも歴史を語るオートバイの数々が展示されています。かつて愛用し、また憧れたオートバイと再会できるかもしれません。

スズキ歴史館
ヤマハコミュニケーションプラザ
[Part.2]存在感あふれる、ご当地グルメの名所

※掲載の写真は平成26年11月に撮影したものです。

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