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[Part.1]現代に受け継がれる屋敷町の記憶
[Part.2]山の手に与えられたグルメという恵み
[Part.1]現代に受け継がれる屋敷町の記憶
江戸に幕府を開いた徳川家康は、三河以来、付き従ってきた信頼の篤い家臣を中心とした大番組という集団を編成し、江戸城の近くに住まわせました。大番組は6つの組からなり、千代田区の一番町から六番町までの町名は、これに由来するといいます。東京の山の手は、単に高台の住宅街を意味するものではありません。江戸期に武家が暮らした屋敷町であり、それが明治維新をへて華族や要人の住まいなどに転用されることで受け継がれてきた地です。今回訪れる九段南・番町・麹町界隈は、江戸時代の初期からその役割を担い、典型的ともいえる歩みとともに、今に至っています。現代の風景の中に秘められた歴史を訪ね、東京の山の手の魅力を探ります。
  • 日本カメラ博物館
  • 番町文人通り
  • 歴史あるまなび舎
  • 大使館の街
写真・カメラの歴史と番町・麹町の意外な関係。
  • ライカの名機の数々を展示
  • ライカ展示ケース
  • 世界で初めて市販されたカメラ「ジルー・ダゲレオタイプ・カメラ」
  • 明治中期に作られた移動暗室

 静かな展示室で待っているのは、日本の写真の歴史を語るカメラの数々。ここは半蔵門駅のほど近くにある日本カメラ博物館。運営するJCII(日本カメラ財団)は、日本製輸出カメラの検査を担っていましたが、後にカメラは輸出検査の対象から外されました。これを機に文化事業活動に転身し、設立したのがこの博物館です。
 約300点におよぶカメラが並ぶ常設展のほか、企画展も積極的に開催。ライカをテーマにした企画展などは、特に人気が高いそうです。スマートフォンの普及で写真撮影が身近になったためか、近年は若いカップルや女性の来館者も増えているとのこと。マニアを自認する方はもちろん、そうではない方も気軽に訪れてみてはいかがでしょう。昔、わが家で活躍していたカメラとの再会は、思いがけず懐かしい気持ちにさせてくれます。
 実は、この界隈は写真にゆかりの深い地でもあります。麹町には江戸時代から続く小西屋六兵衛店という薬問屋があり、1873(明治6)年、日本で最初に現像に用いられる薬品を取り扱いました。写真に興味がおありの方は「小西」「六」という名前でピンとくるかもしれません。この薬問屋が、後の小西六、コニカのルーツとなり、日本の写真技術を支えることになります。西洋文化が早々に輸入されてきたのも、東京の山の手のひとつの特徴でした。

日本カメラ博物館
屋敷町で育まれ、発信された日本のカルチャー。
  • 近代文学の作家などの肖像が配されたプレート
  • 近代文学の作家などの肖像が配されたプレート
  • 近代文学の作家などの肖像が配されたプレート
  • 有島武郎氏
  • 白樺創刊号

 九段南・番町・麹町界隈は、道路が縦横に比較的整然と走っています。これは、屋敷町だったことの名残で、その大まかな配置は大番組が住んだ時代からあまり変わっていないといいます。そんな道路のひとつ、六番町から二番町にかけてのやや細い道を歩いていると、近代文学の作家などの肖像が配されたプレートが点在していることに気づきます。この通りは番町文人通りと呼ばれ、この道を中心とする一帯に、藤田嗣治、島崎藤村、初代中村吉右衛門、泉鏡花、有島武郎、菊池寛、武田鱗太郎、与謝野晶子、串田孫一といった、明治から大正、昭和にかけての当代を代表する文学者や芸術家が居を構えました。
 有島武郎はその弟である有島生馬、里見とんとともに六番町で育っており、その敷地は元旗本屋敷でした。武郎ら3兄弟の父、有島武は鹿児島の下級武士の出身で、大蔵省の役人を務め、海外に外遊もするなど、その人物像は当時の番町に暮らした住民の層をよく物語っています。また、文人通りからは少し離れますが、武者小路実篤も現在の半蔵門駅のほど近くに育っており、こちらも公卿であった父親はドイツ帰りのハイカラな人物でした。このような番町の雰囲気が「白樺派」を育み、大正ロマンが花咲く土壌になったといえそうです。

番町文人通り
近代教育の黎明期から、現代に続く文教の気風。
  • 界隈で最も歴史の長い二松学舎大学
  • 明治時代の漢学塾二松学舎
  • 大妻女子大学博物館
  • 大妻女子大学博物館

 九段南・番町・麹町の界隈は多くの歴史ある学舎が集う文教の地でもあります。三番町の二松学舎大学は、この界隈のみならず、日本国内でも長い歴史を持つ大学として知られます。明治時代、西洋文化が押し寄せるわが国にあって、東洋の文化を学ぶことの重要性を説く三島中洲が開いたこの学校で、若き日の夏目漱石も漢学を学びました。二松学舎大学の創建である1877(明治10)年よりも以前に誕生し、現在も大学として残っているのは、慶應義塾大学や立教大学など、わずかしかありません。
 この二松学舎大学に代表される長い歴史に加え、女学校が多かったこともこの界隈の特徴です。女子学院や雙葉学園は、明治初期に開校され、後年移転してきた学校。1885(明治18)年開校の明治女学校は、後に廃校状態になりますが、近代的で優れた人材で知られ、北村透谷や島崎藤村も教員を務めました。明治30年頃からは、和洋、三輪田、嘉悦、麹町、千代田と女学校が続々と誕生。やや遅れて、大妻、東京家政も創設されます。津田塾、東京女学館など、界隈で創立され、移転した学校も少なくありません。
 三番町の東郷元帥記念公園のほど近くに、モダンな佇まいの大妻女子大学博物館があります。常設展として展示されているのは、創設者である大妻コタカの生涯などに関する資料です。裁縫と手芸の私塾として始まり、現在に至る大妻女子大学の歴史をたどってみても、この地が近代教育のゆりかごであったことが感じられます。

大妻女子大学博物館
二松学舎大学 九段1・2号館
二松学舎大学 九段3号館
二松学舎大学 九段4号館
豊かな国際色は、現代の山の手の表情。
  • イギリス大使館をはじめ多くの大使館がある
  • イギリス大使館をはじめ多くの大使館がある
  • イタリア文化会館もこの界隈

 街を歩くと、個性ある佇まいが目にとまる。何の建物だろうと視線をめぐらせると、そこに国旗がはためいている――。九段南・番町・麹町の界隈は、大使館の街でもあります。イギリス大使館をはじめ、アイルランド、イスラエル、EU代表部、インド、チュニジア、ベルギー、ボスニアヘルツェゴビナ、ポルトガル、ルクセンブルク、そしてローマ法王庁と、その数は12におよび、イタリア文化会館やフランス商工会議所などもこの界隈です。
 港区も大使館が多いことで知られる地ですが、こうした背景には、日本の中枢に近いことに加え、武家の屋敷地などが提供されてきたという事情があります。大使館もまた東京の山の手における風景といえるのです。イギリス大使館の敷地は、前田丹波守などの4邸分の屋敷跡を明治政府が無期限で貸し付けたもので、2014年にはその一部が返還されることが話題になりました。また、現在はモダンなビルに建て替えられたベルギー王国大使館の敷地は、大正時代に総理大臣を務めた加藤高明の屋敷跡です。
 オープンハウス(公開)などの特別な日を除くと、なかなか立ち入る機会がない大使館ですが、街の豊かな国際色は街角のレストランなどにも反映されています。大使館の恩恵といえるかもしれません。

イギリス大使館
ルクセンブルク大使館
イタリア文化会館
[Part.2]山の手に与えられたグルメという恵み

※掲載の写真は平成27年1月に撮影したものです。

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