大内宿 三澤屋
食・趣味・娯楽
ロイヤルシティ猪苗代ヒルズ/2025.07.31
ロイヤルシティ猪苗代ヒルズが位置する福島県猪苗代町から南西へ。福島県下郷町(しもごうまち)には、江戸時代、会津若松城下から現在の栃木県日光今市を結んだ下野(しもつけ)街道が通っていました。この街道は、会津藩初代藩主 保科正之が本格的に整備した会津から江戸への最短ルート。年間数万俵にも及ぶ江戸廻米(回送される年貢米)の輸送路であり、参勤交代の際にも利用された交通の要衝です。当時の旅人の1日の旅程は約10里(40km)といわれ、会津若松城下から約5里(20km)の大内宿は、程よく休憩が取れる宿である間宿(あいのしゅく)として賑わいました。
街道沿いに約40軒の茅葺き屋根の民家が建ち並ぶ大内宿
そんな大内宿は明治時代以降の開発を免れ、現在も江戸時代の景観をとどめています。街道の両脇に流れる側溝と家ごとの洗い場は、1886年(明治19年)から設えられたものですが、それ以前は道路の中央に広い溝が走り、宿場の用水路として利用されていたとか。1981年(昭和56年)には、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されると、住民憲章がつくられ『売らない・貸さない・壊さない』の3原則のもと、住民らが景観保存と伝統的な屋根葺きの技術習得、継承のためにさまざまに活動。街道沿いに建ち並ぶ古の景観を残し、店舗や住居として活用されています。
当時の風情が色濃く残る店構え
大内宿の入り口近くにたたずむ茅葺きの建物は、約350年前の民家を受け継ぐ蕎麦工房、三澤屋です。三澤屋を営む只浦家はもともと酒屋で、敷地内の蔵には酒販売店『大内宿三澤屋久右衛門』も併設。蕎麦屋を始めたのは約30年前からで、『高遠(たかとお)そば』と名付けられたオリジナルの冷たいそばが名物です。高遠とはそもそも、長野県は信州伊那地方の地名。高遠藩主も務めた保科正之は大のそば好きで、国替えのたびにそば職人を引き連れ、そば文化を広めていったというエピソードにもあやかり、蕎麦粉づくりや清水に恵まれたこの地で、営業を始めました。
(写真左上、右)江戸時代の民家の雰囲気が満喫できる店内。大きな梁や柱、時代物の蕎麦猪口など、じっくり眺めたくなる素朴な装飾ばかり
(写真左下)養蚕部屋だった屋根裏はテーブル席に
辛味大根のおろし汁に、焼き味噌を溶かして食べる『信州そば』から着想したのが三澤屋の『高遠そば』です。三澤屋では、焼き味噌ではなく『かえし』をブレンド。お箸代わりに、北会津の契約農家でつくられる『曲がりねぎ』ですくって食べるユニークさも人気です。Jの字に曲がったねぎは、成長途中で土を盛り直してわざと形づけたもので、少しずつかじりながらそばを味わいます。毎日店頭で打つ出来たてのそばは地元南会津産の蕎麦粉と地下水で仕込んだもの。そば殻を含む田舎そばの風味と歯切れの心地よさと、大根とネギのさわやかさが印象的です。
(写真左)蕎麦殻ごと挽いた田舎そばを、大根のおろし汁と曲がりねぎでいただく「高遠そば」
(写真右)二代目社長の只浦光豊さん。「定期的な茅葺き屋根の修繕も、地域の人が職人さんと一緒に取り組んでいます。葺き仕事の合間に先輩とお茶をするのも楽しくて『結』の文化が息づいています」
太い曲がりねぎが添えられた大きな器で供される高遠そばは、食べ進めていくと見た目以上の食べ応えを感じます。大事なお客さまをもてなす料理を、会津では『ごっつぉ』と言いますが、このボリューム感にも会津の文化が宿っています。「大内宿には蕎麦屋さんが10軒近くありますので、うちだけでなくいろいろ回って楽しんで欲しいです」と言葉を添えるのは、只浦家十代目当主で、三澤屋二代目社長の只浦光豊さん。三澤屋では蕎麦だけでなく、三澤屋オリジナルの日本酒も製造販売。宿場町の雰囲気が色濃く残る場所で、会津の味を堪能できます。
蔵を利用した店舗『大内宿三澤屋久右衛門』では地酒を販売。会津の醸造元、花春酒造でつくり上げた三澤屋オリジナルの日本酒『雪百桃姫』は、大内宿の雪の中で1月から100日間寝かせ、まろやかさを追求した特別純米酒