豊後武士その弐★豊後 大神氏のルーツ 
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                              はじめに   
              チリメンの決意 | 
        
        
            | 平日朝のテレビ番組では、星座による運勢占いが紹介されています。 | 
        
        
            | ある日、チリメンの星座の運勢で『仕事運が今年最強の日!』と伝えられました。 | 
        
        
            | 喜びも、つかの間。 | 
        
        
            | そんな最強の日に限って、いつも休日なのです。 | 
        
        
            | 仕方なく、その日は最強の家事の仕事をしました。 | 
        
        
            | 会社勤めの仕事運に恵まれないチリメンは、 | 
        
        
            『恋愛』と『ブログ歴史』に運命を賭けると、決意を新たにしました。 
              
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            |                     前   説 | 
        
        
            | ■豊後武士その壱★で、 | 
        
        
            |   蛇神の子ども伝説が残る、豊後武士の姓祖:大神 惟基を、ご紹介致しました。 | 
        
        
            | ■今回のその弐★では、 | 
        
        
            |   平安時代を遡り、遥か古代の神話から大神氏のルーツに迫りたい、と思います。 | 
        
        
            |   このシリーズは写真が無いので、イメージ挿絵を駆使して、お届け致します。 | 
        
        
              決して、手抜きではございません。 予めご了承くださいませ。 チリメンm(_ _)m 
              
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            |                     序    章 | 
        
        
            |           日本神話 『大和の国造り』 | 
        
        
            | 日本神話で、『出雲の大国主命が、大和の三輪山で国造りをした』と、有ります。 | 
        
        
            | 海に鍛冶翁が降臨し、「大物主神を三輪山に祀れば、大和の国が出来る」と、神託しました。 | 
        
        
            | そして、大国主命が、自身の和魂を祀って造りあげた国が、大和の国なのです。 | 
        
        
            | 大物主神は蛇神で、国の守護神(和魂)・氏神であり、水神、雷神、豊穣神などでもあります。 | 
        
        
            | ちなみに、大国主命の祖神は、三貴神のひとりで、海原を支配したスサノオ尊です。 | 
        
        
            のちに、大国主命は皇祖神と『出雲の国譲り』を行い、出雲大社で大黒大明神となります。 
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            |           三輪山(御諸山)の大神(おおみわ)神社 | 
        
        
            | 三輪山は、神々が降臨する日本各地の山々と同じく、円錐の形をしている山のようです。 | 
        
        
            | 大三輪山の神(大物主神)を祀る大神(おおみわ)神社は、大和国 磯城郡 大神郷に在ります。 | 
        
        
            | 神社に神殿は無く、拝殿から先は三輪山が御神体で禁足です。 | 
        
        
            日本神道の原型とも、日本最古の神社とも云われ、859年度の神階では正一位になっています。 
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            | 古事記や日本書紀によれば、 | 
        
        
            | 10代 崇神天皇(在位:紀元前97~30)が、紀元前91年に大物主神を祀る社の創建を指示しました。 | 
        
        
            | また天皇は、三輪山の蛇神の子とされる大田田根子命(男性)を、初代宮司に抜擢したとあります。 | 
        
        
            (神代の昔にあった大和の『蛇神の子ども誕生』が、のちに豊後でも繰り返されて伝説に成りました) 
             
               | 
        
        
                                    (神話の時代の三輪山での、できごと) 
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            |   一口メモ | 
        
        
            | ■10代崇神天皇 | 
        
        
            |   崇神天皇は、ヤマト王権前の三輪山を信仰する三輪王権の祖ともさています。 | 
        
        
            |        ~実在の可能性もある大王で、3世紀後半から4世紀前半と推測されています。 | 
        
        
            |        ~三輪山の北側に、崇神天皇陵が在ります。 | 
        
        
            |         (三輪山の南側に在る、同年代に建造の茶臼山古墳が、三輪大王のお墓かも・・・・) | 
        
        
            |    ・・・・・・大和の国には、三輪王権前に邪馬台国があったとも云われています。 | 
        
        
                    (3世紀中ごろに建造の箸墓古墳が、年代が一致する卑弥呼のお墓かも・・・・) 
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            | ■箸墓古墳 | 
        
        
            |   箸墓の由来は、夫と別れる原因をつくったことを悔やんだ妻が、箸で死んだことからきています。 | 
        
        
            |   箸墓物語=蛇神の大物主神が夜だけ人の姿に変えて、妻を娶りました。 | 
        
        
            |          昼間に会いたいと訴える妻に応えて、大物主神は本当の姿(小蛇)を表します。 | 
        
        
            |          妻が叫んだため、大物主神は三輪山に帰ったきり戻ることはありませんでした。 | 
        
        
            |          これに後悔した妻が座り込んだときに、箸で死んでしまったのです。 | 
        
        
            |   この妻が7代天皇の皇女:倭迹迹日百襲姫(やまとトトひモモそヒメ)で、崇神天皇の大叔母です。 | 
        
        
            |   箸墓古墳は、倭迹迹日百襲姫大市墓として、崇神天皇陵よりも三輪山に少し近い箸中に在ります。 | 
        
        
            ※日本に箸が伝来したのは7世紀とされていますので、箸墓物語は7世紀以降のお話と推測されます。 
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            |           | 
        
        
            |   二口メモ | 
        
        
            | ■鍛冶翁 | 
        
        
            |   大昔の伝説では、鍛冶翁がよく登場します。 ~宇佐八幡社の創建起因にも登場します~ | 
        
        
            |   太古の時代の鍛冶作業は、金属を生み出す不思議で神秘で神聖なものでした。 | 
        
        
            |   鍛冶で最先端技術を有する一族は、そのほとんどが渡来してきた人々です。 | 
        
        
            |   渡来の鍛冶一族は、守護神・氏神として鍛冶翁を祀り、一族の繁栄を願いました。 | 
        
        
              また渡来人は、大陸の蛇神信仰を持ち込みました。 
              | 
        
        
            | ■蛇神さま | 
        
        
            |   大陸の蛇神は、脱皮を繰り返すことから再生・継続発展・繁栄を約束する氏神です。 | 
        
        
            |   繁栄継続の為に、稲の再生・生長に不可欠な水の神となり、併せて五穀豊穣神でもあります。 | 
        
        
              (河川の形を蛇や龍になぞらえ、水田へ引水・治水などを司る神としても祀ったようです) 
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            | ■大田田根子命 | 
        
        
            |   大神神社の初代神官で、蛇神を父親としています。 | 
        
        
            |   蛇神は大物主神の化身で、大物主神は大国主尊の和魂で氏神です。 | 
        
        
            |   大国主尊の祖神はスサノオ尊で、スサノオ尊は新羅に降臨のあと出雲に降臨しております。 | 
        
        
              スサノオ尊は、全国の八坂神社の主神(祇園さま)として祀られています。 
             
             
              
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            |                       本     章 | 
        
        
            |           大神(おおみわ)神社の神官末裔 | 
        
        
            | 出雲流の蛇神を祖とする初代神官の大田田根子命の神裔で、孫に大友主命がいます。 | 
        
        
            | 大友主命は、14代 仲哀天皇(在位: 178~200)が崩御されたとき、宮中を守ったとされています。 | 
        
        
            | この大友主命を氏神とする神官末裔らが、三輪氏、大三輪氏、大神氏へと分れていきます。 | 
        
        
            そしてヤマト王権の時代には、高級官僚・神官宮司として、日本各地へ赴任・下向したようです。 
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            | 豊の国には、 | 
        
        
            | ◇568年~大神 比義(おおみわ ひぎ)が、宇佐に下向してきます。 | 
        
        
            ◇886年~大神 良臣(おおみわ よしおみ)が、豊後の国介として赴任してきます。 
             
              | 
        
        
            |           大神 比義 <豊前 大神氏の祖> | 
        
        
            | 新羅討伐へ不満を持つ土豪らをヤマト軍が平定した筑紫磐井の乱(527年)など、倭国は乱れていました。 | 
        
        
            | 538年(525年説も)に、仏教が伝来したことで、時の権力者らは、倭国統治の律令に仏教を利用します。 | 
        
        
            | 中央の大和では仏教推進派の蘇我氏が、大神 比義を豊の国 宇佐郡に送ります~568年のことです。 | 
        
        
            571年~比義は、15代 応仁天皇(在位:270~310)を軍神として祀る宇佐八幡社の建立に着手します。 
              | 
        
        
            | 元々豊の国には、鍛冶翁を氏神とする渡来系 : 秦一族による矢幡(やはた)信仰が有りました。 | 
        
        
            | 地方神の矢幡と倭国の軍神が融合して『八幡』となり、神仏習合の仏教読みでハチマンと成りました。 | 
        
        
            | 宇佐在地の古豪:宇佐氏と大神氏は、交互に八幡社の神官を勤めたが、律令の弱体で大神氏は神職を失う。 | 
        
        
            | 豊前宇佐の大神氏の末裔は、豊前武士や速見大神(おおが)武士、博多で豪商となった大賀氏などもいます。     | 
        
        
            八幡社が発展した平安時代の宇佐八幡宮は、豊前豊後にかけて九州一の荘園を持つ大勢力になります。 
             
              
              | 
        
        
            |             大  本  命 | 
        
        
            |           大神 良臣 <豊後 大神氏の祖> | 
        
        
            | 豊後武士の直系ルーツに一番有力な人物です。 | 
        
        
            | 良臣を4代遡ると、大化の改新後の飛鳥時代の三輪 小首(みわの こびと)に当たります。 | 
        
        
            三輪氏は、大三輪氏・大神氏と同様に、大和国三輪山の大神神社の神官の子孫です。 
              | 
        
        
            | 三輪 小首が伊勢国で国介を勤めていたとき、壬申の乱が起きました~672年のことです。 | 
        
        
            | 小首は、美濃国で挙兵した大海人皇子(のちの40代 天武天皇 在位:673~686)に加勢しました。 | 
        
        
            | そして、42代 文武天皇(在位:697~707)が、701年大宝律令を全国に制定したとき、 | 
        
        
            『大』を加えた姓を賜り、大三輪 真上田 子人(おおみわの まかむだの こびと)と名乗ります。 
              | 
        
        
            | そして、子人の4代あと(孫の孫)が、大神姓と朝臣の字名を賜り、 | 
        
        
            | 大神 朝臣 良臣(おおみわの あそみ よしおみ)と名乗ります。 | 
        
        
            良臣は、朝廷官人として肥後と豊後の国介となり、豊後に下向しました~886年のことです。 
              | 
        
        
            | 律令制での任期は6年でしたが、良臣が善政したことにより、領民が任期延長の要望運動を起こします。 | 
        
        
            | 良臣は、九州鎮西の大宰府に願い出て許可を貰い、息子の庶幾(これちこ)を豊後に残し京へ帰りました。 | 
        
        
            | 留まった庶幾は、大宰府より豊後大野郡を担当する官職を与えられ、大野郡の国衙に赴任します。 | 
        
        
            大野郡の領民に大歓迎された庶幾は、運命の糸で結ばれた清川村の土豪娘と出会うのでした。 
             
               | 
        
        
              (大野郡の山々の景色)[2010年2月撮影」 
                                         (大神 庶幾 と 華ノ本姫との出会い in 清川村) 
              | 
        
        
            | 豊後武士その壱★惟基誕生の祖母岳伝説どおり、貴族風青年と土豪娘が出会う恋愛話と符合します。 | 
        
        
            | 庶幾が美女の噂を聞き大野郡を希望したのか、大野郡の土豪による婿取り策略かは解りませんが、 | 
        
        
            | 相思相愛の大恋愛成就と信じたいものです。そして、大神 惟基(これもと)が誕生します。 | 
        
        
                      ~いにしえの出来ちゃった婚の♪ロマンチックが止まらない~ 
              | 
        
        
            | しかし、ちょっと年代的が合わないのです。 | 
        
        
            残る他の家系図を捜してみると、庶幾の4代あとに、大神 惟基(これもと)が生まれたものも有りました。 
              | 
        
        
            | いずれにしても、大和大神流を継承する豊後大神氏の開祖(姓祖)として、惟基が誕生しました。 | 
        
        
            | 大神の氏神は蛇神で誉れの三輪王権の末裔であると、父の庶幾または代々が、伝えていたのでしょう。 | 
        
        
            | 幸いなことに、豊後 大野郡の国衙には、当時国営の牧草地と兵馬の増産訓練場が有りました。 | 
        
        
            領民の協力のもと武門鍛錬ができる環境こそが、弓を取っては九州一の武将:惟基を育て上げました。 
                | 
        
        
            |                             (大神 惟基 の肖像) | 
        
        
            | 武士となった惟基は、大神姓を神職名残りの「おおみわ」から「おおが」の読みに変えたようです。 | 
        
        
            | 時を経て再び蛇神の子として恐れらるほど、大神 惟基の名は九州武士の間で轟きました。 | 
        
        
            | 惟基を姓祖とする末裔たちは、豊後の国衙や宇佐八幡宮の荘園内で、37姓を持つ豊後武士へと発展します。 | 
        
        
            | 総じて勇猛果敢な豊後武士は、馬術と弓術に長け、機動力を備えた九州最強の集団となっていきます。 | 
        
        
            そして惟基の五代あとには、豊後の英雄:緒方 三郎 惟栄が誕生します。 
               | 
        
        
                            (緒方 三郎 惟栄 の肖像) ~恐ろしき者とは、五代前の 大神 惟基のことです~ 
              | 
        
        
            |   三口目メモ | 
        
        
            | ■豊後武士が使う家紋には、下記の二つが多く採用されています。 | 
        
        
              杉紋 = 大神神社ゆかりの紋 ~境内の杉の霊木がデザイン  
                     一本杉 二本杉 三本杉など 
              | 
        
        
              鱗紋 = 蛇神ゆかりの紋 ~鱗を表す三角形がデザイン  
                     幾何学的な組み合わせは多数 
             
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            |   チリメン脱線 | 
        
        
            | ◇JR大分駅の南側には、上野の森と云う標高70mの小高い丘陵が、東西に長く大~きく広がっています。 | 
        
        
            |  ・丘陵の中央から西側は、広い墓地公園になっており、頂きには大分市美術館が建っています。 | 
        
        
            |  ・東側には、百合若大臣伝説が伝承される、5世紀ごろ築造の大臣塚古墳が残っています。 | 
        
        
            |  ・丘陵地には、多くの古寺・神社と磨崖仏が在り、戦国時代の大友家『二階崩れの変』の館跡も在ります。 | 
        
        
            |  ・丘陵を登って南へ下ると平坦になり、豊後国府が在ったと推測される古国府(ふるごう)町に出ます。 | 
        
        
            |   (豊後国府は、886年に大神 良臣が国介として赴任してきた豊後武士発祥に縁りの場所です) | 
        
        
             ・丘陵東側の頂きには弥栄(やさか)神社が在ります。 
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            ◇弥栄神社  「以下の写真は全て2009年9月撮影」 
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            |  ・創建は第49代 光仁天皇(在位:770~781)の時代で、主神はスサノオ尊で、摂社は九社にも及びます。 | 
        
        
            |   建立以来、領主が変わっても大切に守られてきた神社です~明治6年に郷社、大正5年に大分県社。 | 
        
        
             ・昭和の中ごろまでは県社として、多くの曳山(ひきやま)が有って、祇園祭りは凄く賑わっていたそうです。 
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              (楼門の左下に、曳山の車輪と車軸の一部が残っています) 
              (楼門の右隣には、宝物殿や神楽舞台が有ります) (参道には、白い神馬の像も有ります) 
             
             ・神社の主神がスサノオ尊なので、弥栄を「やさか=八坂」と読むことに納得しました。 | 
        
        
                
              (大鳥居には確かに、『祇園宮』と有ります。手前は、狛犬:イタリアン・グレー・ハウンド) 
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             ・神社拝殿の左横に、緒方 三郎 惟栄の石碑が建立されています。 
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              (緒方家縁りのご子孫らが、ご先祖のために建立された石碑です~素晴らしい事です) 
              (碑文には、 惟栄のルーツと活躍が漢文調で彫られ、その偉業を称えています) 
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            | ◇緒方 惟栄の5代前は大神 惟基で、惟基の先祖は大神 良臣で、良臣は大神神社の神官末裔で、 | 
        
        
            |   大神神社は大国主命が大和国を造ったことが起因で、大国主命の祖神はスサノオ尊で、 | 
        
        
            |   そして、スサノオ尊を祀る弥栄(八坂)神社の境内に、緒方 三郎 惟栄の石碑が在る・・・・・・ | 
        
        
             ・・・・・・・・・・・古代からの永いルーツが続き、めぐり巡って、深~い縁を感じます・・・・・・・・・・・・・ 
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            |               さて次回、豊後武士の最終章★その参では、 | 
        
        
            |      豊後武士を束ね九州の武将らも動かし、今も尚、大分県内で絶大な人気を誇る、 | 
        
        
                       豊後の英雄: 緒方 三郎 惟栄を、ご紹介させていただきます。 
             
                                             文責/挿絵:チリメン「間違っていたらゴメンナサイ」 |