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塩羊羹を生みだした諏訪の風土 塩の道と寒天づくりがもたらした味わい

諏訪大社下社の神楽殿。古事記によれば、出雲の国譲りに反対した大国主神の息子、
建御名方神が諏訪にやってきたという。

  • 下諏訪温泉は、中山道と甲州街道が交差する宿場町だった。宿場町の面影を残す街道沿いには、現在も数多くの温泉宿が軒を連ねる。
  • 御柱と呼ばれる樅の巨木を曳き、建てる「式年造営御柱大祭」。7年ごとに行われ、次の開催は2016(平成28)年。もう準備に入っていると、取材先の方々からもうかがった。
  • 周囲15.9kmの諏訪湖は、信州一の湖。冬のワカサギ釣りや御神渡など、氷をイメージさせる湖でもあるが、近年はあまり厚い氷を張らないという。
  • 諏訪よりも北の長野市にある善光寺は、信州を代表する古刹。今年は数え年で7年に一度の御開帳に当たり、諏訪市内のコンビニなどでもガイドブックが売られているのがみられた。
山国に拓かれた文化・物資の交差点

 八ヶ岳や北・中央・南アルプスなど、神々しいまでの峰々が人々を魅了する長野県。その美しい風景ばかりではなく、644年の開山と伝えられる「善光寺」などの名所旧跡にもこと欠かない。ことに、今回訪れた諏訪地方は、出雲の国譲りに由来する「諏訪大社」を擁した神話の地。また、中山道と甲州街道が交差する五街道中でも珍しい宿場町でもあり、交通・物流の要衝としても大切な役割を果たしてきた。
 諏訪湖の周辺に4つの境内地があるという形態もさることながら、「御柱祭」など全国に名を知られながらいまだ謎の多い神事を行う「諏訪大社」に代表されるように、諏訪の地にはその街道と風土が育んだ独自の文化がみられ、歴史や民俗を愛する者のロマンをかき立てる。また、諏訪や近隣の塩尻は、日本海と太平洋から暮らしに欠かせない塩を運ぶ、"塩の道"の拠点でもあった。
 街道を通じて、信州の中央部、諏訪へと集まった物資や定着した技術、文化。「諏訪大社」下社春宮の門前で、人々に愛されて続けている塩羊羹も、実はそんな諏訪の歴史と風土から生みだされたものだった。

農閑期の畑地で寒気にさらし、凍結させたり、融解させたりを繰り返しながら、
2週間ほどかけて乾燥させる。冬の畑が、磯の香りに満たされる。

  • 原料はテングサなどの海藻。産地や時期によって質が違うため、国内外から集められた20種類ほどの海藻をブレンドし、安定した品質を維持する。
  • 原料の海藻を洗浄し、あく抜きをしてから煮つめる。煮終えた液をろ過して固めると生寒天(トコロテン)に。それを野外で寒気にさらし乾燥させる。
  • 社長の松木修治さん。自らも寒天で健康を取り戻した経験がある。「昔からの日本の乾物は身体にいいものが多い。上手に活かしてほしい」とのこと。
  • 現在は使われていない寒天蔵が、町に点在。諏訪地方は生糸の生産が盛んだったが、昭和の大恐慌で没落。繭倉は移築され、寒天蔵として活用された。
全国一の生産量を誇る茅野の角寒天

 茅野市は寒天製造の中心地。生産量もさることながら、天保12(1841)年頃からの長い歴史がある。だが、テングサなどの海藻を原料とする寒天の製造が、なぜ信州で発展したのか。市を代表するメーカー・松木寒天産業の松木修治社長を訪ねた。「昔のこの辺は冬になると出稼ぎにいくか、行商に出るかしかなかった。行商で関西に行った小林粂左衛門という人が技術を持ち帰って始めたんです」
 テングサを煮つめてろ過し、固めたのが生寒天。いわゆるトコロテンだ。それを寒気にさらし、凍結と融解を繰り返しながら乾燥させると寒天になる。寒さが厳しく、空気も乾燥した諏訪なら、もっといいものが作れる。粂左衛門にはそんな気持ちがあっただろうと松木社長は語る。
 こうして作られる天然寒天は、角寒天と呼ばれ、棒のような形状も信州産の特徴になっている。関西では糸寒天が主流だったそうだ。しかし現在は、製品のほとんどが工業的に生産される粉寒天や糸寒天になり、天然の角寒天はわずかになった。粉寒天も角寒天も無味無臭で、成分を分析しても両者に大きな違いがあるわけではない。「それでも、下諏訪の老舗和菓子店、新鶴本店さんなどもずっと角寒天を使い続けています。分析しきれない違いがあるのでしょう」 天然の角寒天づくりは大切に受け継がれ続けている。

天保年間にはすでに塩を扱っていたという(株)丸多田中屋の現当主は百瀬博子さん。料理教室の主宰でもある。

  • 風情のある佇まい。江戸から大正時代にかけて増改築してきた建物を現在も大切に使う。街道筋のお店らしく、その間口に比して敷地の奥行きが深く、4つの蔵が残っている。
  • 現在は、煮豆などに使われる菜豆やゴマ油などを扱う。店内には往年の鑑札など、歴史をしのばせる品々が並ぶ。
  • 蔵の1つは、百瀬さんが腕を振るう手打ち蕎麦のお店「六三」(ろくさん)として改装した。別の蔵でも何かできないか、百瀬さんは思いをめぐらせる。
  • 商品を量る升。○に多の屋号が袋に焼印された大豆は量が多く、鰍沢の塩問屋に歓迎され、取引がスムーズだったという。
塩の道の終着点を担った諏訪の商人

 「敵に塩を送る」という言葉がある。上杉謙信が敵対関係する武田信玄に塩を送り、塩不足の窮地から救った。史実かどうかは諸説あるようだが、逸話からは内陸で塩を確保することの苦労がうかがえる。信州には沿岸部から塩を運ぶ"塩の道"があった。日本海と塩尻を結んだ千国街道、北国街道はよく知られる。そして、太平洋側のルートが目指したのは諏訪だった。諏訪で代々、塩や大豆の卸商を営んできた老舗・丸多田中屋の百瀬博子さんはいう。「昔は塩のことを鰍沢(かじかざわ)と呼んだそうです。山梨県の鰍沢まで大豆を運んで、塩と交換していたんですね」 富士川を船で運ばれてきた塩は、鰍沢で陸に上がり、馬で諏訪まで運ばれた。戦後、丸多田中屋は塩から手を引いたが、塩を扱う店は多い時で界隈に23軒ほどあったらしい。
 現在、百瀬さんは料理教室を主宰する一方、敷地内にある蔵をリノベーションした完全予約制の手打ち蕎麦と会席料理のお店を切り盛りしている。その蔵にはかつて大豆や塩が積まれていた。また、お店で使用している器は、百瀬さんの曾祖父が収集し、蔵にしまっていた伊万里焼や九谷焼だ。「明治から戦前にかけて、ひいおじいさんやおじいさんの頃が一番栄えていたようです」百瀬さんの暮らしには、塩の道の終着点だった諏訪の栄華が今も息づいている。

株式会社丸多田中屋
  • [Part.1]塩の道と寒天づくりがもたらした味わい
  • [Part.2]伝統の製法を守り続ける、老舗のこだわり
  • [Part.3]地産地消の思いが磨いた郷土の逸品たち

※掲載の写真は平成27年3月に撮影したものです。

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