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能登と大和ハウス工業創業者石橋信夫のつながり

「能登は優しや土までも」――
激動の人生を歩んだ石橋信夫が愛した能登とは

能登に深い愛情を抱き、生涯をかけて地域の発展に尽力した大和ハウスグループの創業者・石橋信夫。
日本全国の建築・住宅・生活にさまざまな革新をもたらした彼は、人生の最終章をこの地で過ごしました。
なぜ能登を愛したのか――石橋信夫と能登の深い絆を紐解きます。

能登と大和ハウスグループの深いつながり

リゾート事業の始まり――「本当の豊かさ」を求めて

1950年代から70年代にかけて、高度経済成長により日本人の生活は急激に豊かになりました。この流れの中で、物質的な豊かさではなく「本当の豊かな生活」が求められる時代が来ると考えた石橋信夫は、働き詰めだった人々が穏やかに過ごせるリゾートの開発にいち早く着手しました。

日本には四季折々の美しい自然と観光資源があり、それを活かすことで新たな価値を創造できる――
その思いから、1978年、能登に大和ハウスグループ初のリゾートホテル※を建設。
ここから全国へとリゾート事業を拡大し、日本に新しいライフスタイルをもたらす「生活革命」を起こしたのです。

能登は、まさに大和ハウスグループにおけるリゾート事業の原点ともいえる場所でした。

※⼤和リゾート(株)が運営しておりました、能登ロイヤルホテルは、2023年7⽉19⽇付で事業譲渡しています。

地域活性化を目指して

リゾート事業の展開は、単なる観光施設の開発にとどまりません。
石橋信夫は地域の雇用を生み出し、地場産業の育成を支援することで、地域社会の活性化を目指しました。
その功績が認められ、1983年には石川県志賀町から地域振興の尽力に対し表彰を受けています。

志賀町――石橋信夫が晩年を過ごした地

大和ハウスグループにとって特別な地である能登。
石橋信夫自身にとっても、「第二の故郷」ともいえる場所でした。
奈良県の川上村で生まれ育ち、大阪府で大和ハウス工業を興した石橋信夫ですが、人生の最終章を能登・志賀町の「石橋山荘」で過ごしました。この別荘は現在も大切に保存され、その模型が「石橋信夫記念館」(奈良県)に展示されています。

石橋信夫が能登を愛したわけ

「能登は優しや土までも」――人々と風土のぬくもり

なぜ、石橋信夫は能登を愛したのでしょうか。
石橋信夫が晩年を過ごした志賀町は、日本海に向けて突き出す能登半島の丘陵地に位置し、豊かな自然と伝統文化が息づく場所。日本各地で失われつつある農村景観や、農業・漁業と密接に関わる技術や文化が、今も大切に受け継がれています。
2011年には「能登の里山里海」として、国内初の世界農業遺産に認定されました。
石橋信夫は「能登は優しや土までも」という言葉を残しました。
その言葉のとおり、彼もまた、訪れる人々を温かく迎え入れる風土や自然の美しさに深く心を寄せていたのです。

「岸壁の母の碑」――シベリア抑留とのつながり

石橋信夫と能登のつながりを示すもう一つのエピソードが、「岸壁の母の碑」の建立です。
この碑は、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放された息子の帰りを待つ母親の姿を描いたもの。1991年、能登半島に建てられましたが、石橋信夫もその建立に協力しました。彼の胸中には、おそらく自身が経験した3年間のシベリア抑留生活への思いがあったのでしょう。終戦後、極寒の地での過酷な環境を生き抜いた苦難の経験が「人々の暮らしをより豊かにしたい」という信念となり、1955年の大和ハウス工業創業につながったのです。
彼がこの場所に特別な愛着を抱いたのは、能登半島から望む日本海の彼方、シベリアの地に思いを馳せていたからなのかもしれません。

おわりに――能登で受け継がれる石橋信夫の精神

激動の時代を乗り越え、日本の建築・住宅・生活に数々の革新をもたらした石橋信夫。
晩年は病を抱えながら志賀町で過ごし、2003年に81歳でこの世を去るまで、未来への「夢」を語り続けました。
「将来を見据え、地域社会の役に立つ存在であり続ける」――
この精神は今もなお、大和ハウスグループの社員に受け継がれています。
そして、能登の地に息づく伝統や人々のぬくもりとともに、さらに未来へと紡がれていくことでしょう。

石橋信夫翁 能登立像

立像は、1993年ごろの石橋信夫をモデルに、在りし日の姿を現しています。生誕の地である奈良・吉野と大和ハウス工業本社を望み、大和ハウスグループの未来を見守っています。

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