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吉野の桜・歴史

吉野の桜

(特長)
吉野山の桜は固有種のシロヤマザクラが中心で、赤い葉っぱをつけた後に花を咲かせます。

(由来)
吉野の桜は約1300年前、修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が山桜の木にご本尊蔵王権現(ざおうごんげん)を刻んだことから、御神木として崇められ、祈りを込めて植えられてきたと伝えられています。
そして、そこに住む人々が代々、大切に守ってきました。
その数、現在約3万本といわれ、そのほとんどが“シロヤマザクラ”です。
ヤマザクラは日本の野生の代表的な種で、観賞用として江戸時代に誕生した“ソメイヨシノ”とは異なり、寿命が長く大木になることで知られています。

歴史年表

671 役行者が金峯山上(大峯山)で蔵王権現を感得し、その姿を桜の木で刻んだと伝えられる。
701 持統天皇、この年までに三二回も吉野に行幸。
900 宇多法皇、この年と延喜五(九〇五)年に金峯山に参詣。
960 内裏炎上。そのあと吉野山の桜が紫宸殿前に植えられる(左近の桜)
このころまでに「金御嶽」として、金峯山の黄金埋蔵伝説が生まれる。
1007 藤原道長が御嶽詣(金峯山詣)をし、金峯山山上に経塚を築く。
1049 藤原頼道が御嶽詣
1092 白川法皇が御嶽詣
1140 平忠盛が金峯山に鐘(三郎鐘=重文)を寄進。このころ西行が来て寓居する。
1185 源義経らが吉野山に潜伏。静御前が捕らえられ、鎌倉に送られる。
1226 如意輪寺の蔵王権現像(重文)が造られる。
1251 水分神社玉依姫神像(国宝)が造られる。
1332 大塔常護良親王が吉野に城郭を構築し、倒幕の兵を挙げる。
1333 鎌倉幕府軍が攻め寄せ、護良親王ら高野山に難を避ける。
村上義光・義隆父子が討ち死に。吉野山ほほ全焼。
1336 後醍醐天皇が吉野山に潜幸。南北朝の対立が始まる。
吉水院宗信らが後醍醐天皇を迎え、吉水院(現在の吉水神社)を行在所とし、ついで実城寺(金輪王寺)を皇居と定める。
1338 仁王門(国宝)の金剛力士像(阿形・県文)が造られる。
1339 後醍醐天皇崩御。塔尾山(如意輪寺本堂の裏手)に葬られる。
仁王門の金剛力士像(吽形、県文)が造られる。
1347 楠木正行が後村上天皇に最後の別れを告げるために参内、後醍醐天皇陵に詣でたのち四条畷へ出陣
1348 足利方の高師直軍が攻め寄せ、後村上天皇ら賀名生(西吉野村)に難を避ける。吉野山ほぼ全焼。
1471 蔵王堂正面の銅灯龍(重文)が寄進される。
1553 三条西公条が来て「吉野詣記」を著す。
1578 摂津平野の豪商末吉勘兵衛が桜の苗一万本を寄進する。
このころから、参詣の人々による桜の献木植樹が盛んとなる。
1592 このころ現在の蔵王堂(国宝)が再建される。
1594 豊臣秀吉が、豊臣秀次・徳川家康・前田利家・伊達政宗らを引き連れ吉野で大花見をする。
1595 豊臣秀吉、金峯山寺に寺領寄進の朱印状をあたえる。
1604 豊臣秀頼、水分神社社殿(重文)・安禅寺(廃寺)・大橋などを修復。このころから庶民の山上参り(大峯山参り)が、ますます盛んとなる。
1874 神仏分離政策により、蔵王堂などが強制的に神社に改められる。
1886 蔵土堂が仏堂に復帰する。
1924 吉野山が史跡及び名勝に指定される。
1928 現在の吉野駅まで鉄道が延長される。
1936 吉野熊野国立公園に指定される。
2004 ユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」登録

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